「エミラウ島の無血占領」の版間の差分

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1944年3月にアメリカ軍がラバウル包囲作戦の一環で行った作戦行動。en:Landing on Emirau(19:45, 16 July 2012‎ UTC)の翻訳がベース。
 
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==戦闘経過==
===準備===
ハルゼーからの伝言は、3月15日に[[ガダルカナル島]]に滞在していたウィルキンソンのもとに届き、カビエン攻略のために出撃予定だった艦船の行動が一時差し止められ、攻略部隊は改めて3月18日に出撃した<ref name="p429"/>。攻略部隊は[[ロイ・ガイガー]]海兵少将率いる第1海兵水陸両用部隊指揮下の{{仮リンク|第40歩兵師団 (アメリカ合衆国)|en|40th Infantry Division (United States)|label=第40歩兵師団}}を主体とし、[[第3海兵師団 (アメリカ軍)|第3海兵師団]]中の{{仮リンク|第4海兵連隊 (アメリカ合衆国)|en|4th Marine Regiment (United States)|label=第4海兵連隊}}を補強として付け加えることとなっていた<ref name="p429"/>。エミラウ島攻略に際し、第4海兵連隊にはさらに{{仮リンク|アラン・シャプレー|en|Alan Shapley}}海兵中佐率いる{{仮リンク|海兵第3戦闘設営大隊|en|3rd Assault Amphibian Battalion|label=海兵第3設営トラクター大隊}}C集団、[[M4中戦車|M4「シャーマン」]]を装備した{{仮リンク|海兵第3戦車大隊|en|3rd Tank Battalion}}A集団、信号、兵站および運搬を担当し先鋒を務める{{仮リンク|海兵第3戦闘物流戦兵站連隊|en|Combat Logistics Regiment 3}}および対空戦担当の海兵第14防空大隊が追加された<ref>[[#Rottman]] p.318</ref>。当該部隊は、1944年2月1日にローレンス・F・レイフスナイダー海軍准将を指揮官として設置された第4海兵強襲大隊の最初の作戦にあたり、先代部隊は[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピンの戦い]]における{{仮リンク|コレヒドールの戦い|en|Battle of Corregidor}}で壊滅していた。また、遠征軍は第3海兵師団の副司令官である{{仮リンク|アルフレッド・H・ノーブル|en|Alfred H. Noble}}海兵准将が指揮を執ることとなった。ノーブルは、エミラウ島を占領した暁には島の司令官になることが定められていたため、第3両用戦部隊と第3海兵師団から抽出されたスタッフが付けられた。航空支援部隊はウィリアム・L・マッキトリック大佐が率い、作戦の掩護とカビエンへの圧力を担当した。<ref>[[#Shaw, Kane]] p.519</ref>。
 
エミラウ島には強力な日本軍部隊はいないと推定されていたが、それでも海空の強力な掩護がつくこととなった。ロバート・M・グリフィン海軍少将に指揮された[[戦艦]]「[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]」、「[[ミシシッピ (戦艦)|ミシシッピ]]」、「[[アイダホ (戦艦)|アイダホ]]」、「[[テネシー (戦艦)|テネシー]]」、[[護衛空母]]「[[マニラ・ベイ (護衛空母)|マニラ・ベイ]]」と「[[ナトマ・ベイ (護衛空母)|ナトマ・ベイ]]」および15隻の駆逐艦の水上部隊はカビエンに対する海と空からの制圧と砲撃の任を受け、14インチ砲弾1,079発と5インチ砲弾12,281発が消費された<ref>[[#Morison]] p.423</ref>。水上部隊からのカビエンへの攻撃は、第十四根拠地隊司令官田村劉吉海軍少将に「カビエンへの上陸作戦近し」との印象を与え、ヨーロッパ人捕虜を処刑する命令を出した。世に言う「カビエン大虐殺」 (''{{lang|en|Kavieng Wharf Massacre}}'') とはこのことであり、捕虜のうち少なくとも25名が殺害され、戦争終結後の1947年に田村を含む6名が戦争犯罪に問われた。田村は絞首刑の判決を受け、1948年3月16日に[[香港]]{{仮リンク|赤柱監獄|en|Stanley Prison}}で処刑された。<ref>[[#Dunbar]]</ref>。