「グウォグフ」の版間の差分
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[[三十年戦争]]の中、グウォグフは1630年に要塞へと改装された。その後1632年にプロテスタントに征服され、1633年に[[ハプスブルク君主国]]が奪還し、1642年には[[バルト帝国]]に征服され、最終的に1648年にハプスブルクに戻った。
グウォグフがオーストリア王冠領ボヘミア<!--原文: the Austrian Crown of Bohemia-->の一部であったのは、[[第一次シュレージエン戦争]]が起きるまでであった。1741年3月、グウォグフは[[レオポルト2世 (アンハルト=デッサウ侯)|アンハルト=デッサウ侯レオポルト2世]]率いる[[プロイセン王国|プロイセン]]軍の夜襲に遭い、[[シレジア]]の大部分と同様に、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]下の[[プロイセン王国]]の一部になった。町はドイツ語式にグローガウ(Glogau)と呼ばれるようになり、シレジア内陸部に位置するオー
[[ナポレオン戦争]]の間、[[ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ]]率いるポーランド軍がグローガウに駐留した。また、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]はグローガウを3回訪れている。グローガウは1806年の[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]を経て[[フランス第一帝政]]の軍隊に占領されている。1813年から1814年の間、第六次対仏大同盟によって包囲され、9千人のフランス兵と共に籠城したこともあり、[[1814年]]の[[4月10日]]に降伏したときは、兵士は1800人しか残っていなかった。
要塞化によって町の開発が長期間にわたって妨げられてきたため、[[19世紀]]、グローガウ市民によって要塞化の解除が進められた。[[1873年]]の時点では防壁を東部へ移すにとどまったが、1902年についに解体され、開発が可能になった。[[1939年]]には、グローガウの人口は3万3千人にのぼり、ほとんどの居住者がドイツ人であった。
[[Image:Glogow kosciol sw. Mikolaja.jpg|thumb|left|聖ニコラス教会跡]]
[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]、グローガウの町は[[ナチス・ドイツ]]によって要塞に作り替えられた。グローガウは[[ソビエト連邦]]の
[[1945年]]から[[1950年]]までの間、グウォグフはブロツワフ県に属していたが、1950年には新設されたジェロナ・グラ県に属するようになった。1975年から1998年の間はレグニツァ県に属していたが、[[1999年]]の行政再編に伴って[[ドルヌィ・シロンスク県]]に属することになった。
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100年後、ユダヤ人ベネディクト(Benedict)一家に与えられた特権の効力により、新たな信徒協会が組織された。ユダヤ人は現在の城の周辺に住んでいた。すべての訴訟は[[ラビ]]と長老のいるユダヤ人の裁判所で裁かれた。
[[1636年]]、以降260年間礼拝し続けることになる新しいシナゴーグがベネディクト家によって建設された。当時のユダヤ人人口は1500人であった。プロイセンによってシレジアが占領されると、とくにシュタイン・ハ
==出身者==
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