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[[ファイル:Rhodes0211.jpg|thumb|right|ロドスの巨像の想像図 (''The Grolier Society's 1911 Book of Knowledge'')]]
'''ロドス島の巨像'''(ロドスとうのきょぞう、Colossus of Rhodes)は、[[紀元前3世紀]]頃に[[{{仮リンク|リンドスのカレス]]|en|Chares of Lindos}}によって[[エーゲ海]]南東部の[[ロドス島]]に建造された、[[太陽神]][[ヘーリオス]]をかたどった彫像([[コロッサス|コロッソス]])。[[世界の七不思議]]の一つ。
 
全長は34メートル。台座まで含めると約50メートルになり、現代の[[ニューヨーク]]の[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]に匹敵する大きさであった。ヘーリオスは同じ太陽神の[[ソール (ローマ神話)|ソル]]や[[アポロン]](ローマ名アポロ)と混同されたため、'''アポロの巨像'''とも呼ばれる。
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== 建造に至る経緯 ==
{{main|ロドス包囲戦}}
 
[[紀元前323年]]、[[アレクサンドロス3世]]が死亡。彼には後継者が存在しなかったため、マケドニア帝国は有力な将軍たちによって分裂し、[[ディアドコイ戦争]]に突入した。この戦争において、ロドスは[[エジプト]]を領する[[プトレマイオス1世]]に協力した。
 
プトレマイオスの対抗者である[[アンティゴノス1世]]は、[[紀元前305年]]、息子の[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス]]に40,000の軍を率いさせてロドスへ派遣した。城壁で囲まれたロドスの防備は固く、デメトリオスは[[攻城塔]]を作って接近しようとした。まず、6隻の船に攻城塔を搭載して送り出したが、嵐のために接近できなかった。デメトリオスは、[[{{仮リンク|ヘレポリス]]|en|Helepolis}} (Helepolis) と名づけたさらに大型の攻城塔を建設し、これを陸上からロドスへ送り込んだ。しかし、城内から出撃したロドスの守備隊が、城壁に到達する前にヘレポリスを阻止した。[[紀元前304年]]、プトレマイオスの派遣した軍隊がロドスに到着、デメトリオスは大いに慌て、急いで軍を引き揚げさせた。あまりにも急な撤収だったため、多くの装備が置き去りにされていた。なお、デメトリオスはロドスの征服には失敗したが、他の都市を多く包囲、陥落させたため、ポリオルケルテス (Poliorcetes、ポリス攻囲者) と呼ばれた。
 
== 構造および顛末 ==
ロドスの人々はこの勝利を祝い、太陽神ヘーリオスへの感謝の証として彫像を作ることとした。建造の指揮は[[リンドスのカレス]]に任された。彼は20メートルを超えるゼウス像を建造した[[リュシッポス]]の弟子だった。また、かつて大彫像の制作に関わったことのあるロードスの住民も協力した。
 
== 構造および顛末 ==
[[ファイル:Colossus of Rhodes.jpg|thumb|left|16世紀の画家Martin Heemskerckによる想像図]]
古代の記述に拠れば、ロドスの巨像は以下のようなものだった。まず、ロドスの港の入り口付近に、高さ15メートル (50フィート)の[[大理石]]製の台座を設置した。その台座の上に鉄製の骨組みを作り、さらに薄い青銅板で外装を覆った。外装はデメトリオス軍の遺棄した武器や[[攻城塔]]を鋳潰したものが使われた。建造には盛り土の傾斜路を利用し、組み立てが進むにつれて、傾斜路の高さを調節して対応していたと考えられている。彫像自体の高さは34メートル(110フィート)、台座を含めると約50メートルに達した。
 
ロドスの人々はこの勝利を祝い、太陽神ヘーリオスへの感謝の証として彫像を作ることとした。建造の指揮は[[{{仮リンク|リンドスのカレス]]|en|Chares of Lindos}}に任された。彼は20メートルを超えるゼウス像を建造した[[リュシッポス]]の弟子だった。また、かつて大彫像の制作に関わったことのあるロードスの住民も協力した。
巨像が完成したのは着工から12年後の[[紀元前284年]]であった。しかし、58年後の[[紀元前226年]]にロドスで地震が発生、巨像は膝から折れて倒壊した。[[プトレマイオス3世]]は再建のための資金提供を申し出たが、ロドスの住民は神に似せた彫像を作ったことが、神の怒りに触れたのだろうと考え、再建を拒否した。巨像は800年間にわたってそのまま放置され、その間に残骸を見物するために多くの人が訪れた。[[プリニウス|大プリニウス]]の記述に拠れば、巨像の脱落した親指に腕を回せるものはわずかしかおらず、また指だけでもほとんどの彫像より大きかったという。
 
古代の記述に拠れば、ロドスの巨像は以下のようなものだった。まず、ロドスの港の入り口付近に、高さ15メートル (50フィート)の[[大理石]]製の台座を設置した。その台座の上に鉄製の骨組みを作り、さらに薄い青銅板で外装を覆った。外装はデメトリオス軍の遺棄した武器や[[攻城塔]]を鋳潰したものが使われた。建造には盛り土の傾斜路を利用し、組み立てが進むにつれて、傾斜路の高さを調節して対応していたと考えられている。彫像自体の高さは34メートル(110フィート)、台座を含めると約50メートルに達した。巨像が完成したのは着工から12年後の[[紀元前284年]]であった。
 
== 地震による倒壊および顛末 ==
{{main|:en:226 BC Rhodes earthquake}}
巨像が完成したのは着工から12年後の[[紀元前284年]]であった。しかし、58年後の[[紀元前226年]]にロドスで地震が発生、巨像は膝から折れて倒壊した。[[プトレマイオス3世]]は再建のための資金提供を申し出たが、ロドスの住民は神に似せた彫像を作ったことが、神の怒りに触れたのだろうと考え、再建を拒否した。巨像は800年間にわたってそのまま放置され、その間に残骸を見物するために多くの人が訪れた。[[プリニウス|大プリニウス]]の記述に拠れば、巨像の脱落した親指に腕を回せるものはわずかしかおらず、また指だけでもほとんどの彫像より大きかったという。
 
[[654年]]、[[ムアーウィヤ]]の軍がロドスを征服した。[[テオファネス]]の記述に拠れば、この時巨像の残骸は[[エデッサ]]の商人に売却されたという。商人は彫像を破壊して青銅のスクラップにし、900頭のラクダの背に積んで持ち去った。彼らはイスラム教徒であり、巨像のような偶像崇拝を忌んでいた。