「ハンス・フォン・ドホナーニ」の版間の差分

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司法試験合格後の1925年にボンヘッファー兄弟の姉妹クリスティーネと結婚した。この結婚を機に、ハンガリー系の苗字ドホナーニ(Dohnányi)の「a」の上についていたアクセント記号を除去した。妻との間に三児をもうけ、長男[[クラウス・フォン・ドホナーニ|クラウス]]はのちに政治家となり、次男[[クリストフ・フォン・ドホナーニ|クリストフ]]は指揮者になる。
 
ハンブルク市庁での短期間の勤務の後、1929年に法務省に入省し、[[検察官]]、1934年以後は参事官として歴代法相に仕えた。1932年には最高裁判所長官[[エルヴィン・ブムケ]]([[:de:Erwin Bumke]])の補佐官を務め、その際[[フランツ・フォン・パーペン]]首相による[[プロイセン]]州の[[オットー・ブラウン]]州首相解任事件に対する違法裁定判決に関わった。無法な「[[長いナイフの夜]]」事件ののち、反[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]抵抗運動に参加するようになったと思われる。ナチ政府による犯罪行為を列挙した文書を作成し、政府転覆の後に法に基づいた裁きを行うための資料とした。1938年にナチスによる[[ニュルンベルク法]]をドホナーニが批判したことが明らかになると、最高裁判事に左遷された。
 
=== 抵抗運動と処刑 ===