「モザッファロッディーン・シャー」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ナーセロッディーン・シャー]]の子供として生まれたモザッファロッディーンは、父やその[[{{仮リンク|アッバース・ミールザー]]|en|Abbas Mirza}}がそうであったように、[[1861年]]に[[アゼルバイジャン]]総督として赴任した。アゼルバイジャンでの35年間の生活は、快楽を追い求めていたものであり、父ナーセロッディーンとの関係は時折、緊張関係にあった。また、国政にほとんど参与することがなかったため、[[1896年]]に、父ナーセロッディーンが暗殺され、シャーの地位に即位した際も、国政の準備がほとんどできていなかった。
ことがなかったため、[[1896年]]に、父ナーセロッディーンが暗殺され、シャーの地位に即位した際も、国政の準備がほとんどできていなかった。
 
モザッファロッディーンは、父がヨーロッパを訪れたのと同様に、3回、ヨーロッパを訪問している。最初の訪問で訪れた[[パリ]]で、「映写機」を紹介されたモザッファロッディーンは、銀幕のとりこになってしまい、自らの写真技師に映画の撮影方法を習得するようにと命令した。このことが[[イランの映画]]の始まりとされている。