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[[1855年]][[3月24日]]、[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]において銀行家[[トマス・メロン]]の息子として誕生した。
 
[[1872年]]に[[材木]]事業を始め、若くして財を築き上げた。翌[[1873年]]に[[西ペンシルベニア大学]]を卒業すると、父親が経営する銀行に参加し、[[1882年]]には所有権譲り受けた。[[1889年]]、[[ユニオン信託]]を設立し、さらに銀行経営から[[石油]]、[[鉄鋼]]、[[造船]]、[[建設]]などの事業を展開した。そして[[1890年代]]末には、[[ジョン・ロックフェラー]]、[[ヘンリー・フォード]]と並ぶ、アメリカ合衆国で最も財のある3人の富豪のうちの1人に成長した。
 
[[1900年]]、[[イギリス]]の[[ハートフォード (ハートフォードシャー)|ハートフォード]]において[[ノラ・マクマレン]]と結婚した。[[1901年]]には娘の[[エイルサ・ブルース|エイルサ]]が、[[1907年]]には息子の[[ポール・メロン|ポール]]が誕生した。
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=== 財務長官時代 ===
[[1921年]]、メロンは[[ウォレン・ハーディング]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]によって組閣された内閣の一員として、[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]に任命された。組閣直後からハーディング大統領はメロンに対して[[関税]][[戦争税]]などの税制改革と連邦予算の作成を矢継ぎ早に指示したが、メロンは銀行家としての長い経験を活かし、それらの要求に対して迅速に応えた。
 
しかしながらメロンは保守的な共和党員として、また資本家として、現状の政府の予算管理の手法に満足していなかった。当時の政府の財政は、歳出の増加に対して歳入が追いついておらず、貯蓄が減少している状況であった。
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[[1923年]][[8月]]、ハーディングの死去により副大統領の[[カルビン・クーリッジ|カルヴァン・クーリッジ]]が大統領に昇任した。ハーディング内閣の閣僚はそのままクーリッジ政権に継承され、メロンもまた留任した。同年[[11月]]、メロンは「[[メロン計画]]」と呼ばれる文書を下院歳入委員会に提出した。この文書は剰余収益を基盤に減税を行うことを主張したものであり、翌[[1924年]]にはこの提言の大部分が[[歳入法 (1924年)|歳入法]]として成立した。[[1921年]]の税率はそのまま維持されたが、結果として毎年の税負担が4億ドル軽減された。この改革により[[1921年]]には260億ドルあった[[国庫]]借入金が、[[1930年]]には160億ドルにまで減少した。
 
[[1929年]][[3月]]、政権が[[ハーバート・フーヴァー]]大統領に交代したが、メロン計画の成功を買われたメロンは引き続き財務長官を務めることになった。しかしながら同年[[11月]]、[[世界恐慌]]が発生すると、メロンは世論の猛烈な批判を浴びることになった。この時期メロンは、「労働者、株式、農民、不動産などを清算すべきである。古い体制から腐敗を一掃すれば価格は適正になり、新しい企業家達が再建に乗り出すだろう」と発言したが、これはフーヴァー政権の無策の象徴として不評を買った([[日本]]の[[経済学者]][[竹森俊平]]は[[濱口内閣]]や[[小泉内閣]]にも通じる「不況を通じて腐敗を清算してこそ好況につながる」という思想として「[[清算主義]]」と命名した)。フーヴァー政権は[[スムート・ホーレー法]]などの税制政策により国内経済の安定を図ったが高い関税率により輸出は停滞。[[1932年]][[2月]]、メロンは財務長官を辞任した。
 
メロンは財務長官退任後、[[在イギリスアメリカ合衆国大使|駐イギリス大使]]として渡英した。そして1年間の[[大使]]生活を送った後、第一線を退いた。
 
=== 引退後 ===