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== 歴史 ==
この都市への人間の居住は[[シュメール]]時代には始まっていたが、その重要性を増すのは[[ウル第3王朝]]滅亡後の紀元前2000年紀である。ウル第3王朝の滅亡から、[[ハンムラビ]]王によるメソポタミア統一に至るまでの時代を'''[[イシン・ラルサ時代]]'''と呼ぶ。この時代の他の多くの国と同様に、ラルサ王朝は[[アムル人|アムル系]]と見られる人々によって建設された。歴代の王のうち、即位が実際に確認されているのは第4代の[[{{仮リンク|ザバヤ]]イア|en|Zabaia}}からである。この時代には[[イシン第1王朝]]の覇権下にあったとする説もある。後継者[[グングヌム]]は[[イシン]]と戦ってこれを撃退し、ラルサを独立勢力とした。更に[[ウル]]市を獲得するなどしてイシンに対して優位に立ち、ラルサの基盤を固めた。ラルサとイシンはこの後引き続きは[[ニップル]]市の支配権を巡って長期に渡る抗争を続けた。これはニップル市がシュメールにおける宗教的中心地であり、ウル第3王朝の後継者たることを主張した両王朝にとって政治的に重要な都市であったことによる。更にその後、王朝を簒奪した[[クドゥル・マブク]]と息子の[[{{仮リンク|ワラド・シン]]|en|Warad-Sin}}、[[リム・シン1世]]の時代を通じて、南部メソポタミア有数の大国となった。ただ、ラルサ王朝の王達は'''アムルの父'''を称しているが、クドゥル・マブク等は実際には[[エラム|エラム系]]の名前を持っている。
 
有力国として栄えたラルサは[[紀元前18世紀]]にメソポタミアで覇権獲得に乗り出した[[バビロン]]の[[ハンムラビ]]王ともまた激しい戦いを繰り広げた。リム・シン1世はハンムラビのライバルの一人であったが、[[紀元前18世紀|紀元前1763年]]、ハンムラビの攻撃を受け、半年間に及ぶ包囲戦の後にラルサ市は落城し、バビロンに征服された。その後一時独立を回復するも、もはや有力国であることはできなかった。
 
==歴代君主==
#[[{{仮リンク|ナプラヌム]]|en|Naplanum}}(前2025 - 前2004)
#{{仮リンク|エミスム|en|Emisum}}(前2004 - 前1976)
#{{仮リンク|サミウム|en|Samium}}(前1976 - 前1941)
#[[{{仮リンク|ザバヤ]]イア|en|Zabaia}}(前1941 - 前1932)
#[[グングヌム]](前1932 - 前1905)
#[[{{仮リンク|アビサレ|en|Abisare|label=アビ・サレ]]}}(前1905 - 前1894)
#[[{{仮リンク|スムエル|en|Sumuel|label=スム・エル]]}}(前1894 - 前1865)
#{{仮リンク|ヌル・アダド|en|Nur-Adad}}(前1865 - 前1849)
#{{仮リンク|シン・イディナム|en|Sin-Iddinam}}(前1849 - 前1842)
#{{仮リンク|シン・エリバム|en|Sin-Eribam}}(前1842 - 前1840)
#{{仮リンク|シン・イキシャム|en|Sin-Iqisham}}(前1840 - 前1835)
#[[{{仮リンク|ツィリ・アダド]]|en|Silli-Adad}}(前1835 - 前1834)
#[[{{仮リンク|ワラド・シン]]|en|Warad-Sin}}(前1834 - 前1822)
#[[リム・シン1世]](前1822 - 前1763)
 
[[バビロニア#バビロン第1王朝(古バビロニア)|バビロン第1王朝]]による支配:前1763 - 前1750)
 
*{{仮リンク|リム・シン2世|en|Rim-Sin II}}(前1750頃)
 
==その他の主なシュメール都市国家==
*[[イシン]](Isin)
*[[ウル]](Ur)
*[[ウルク]](Uruk)