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1953~1955年の正倉院事務所の調査によって、吉野らとともに「金銀鈿荘唐大刀」の実物を目にした[[松田権六]]は1964年、「末金鏤はまさしく後のいわゆる蒔絵の技法になるもの」と判定し、これまで支持してきた六角の「末金鏤=練描」説を否定した。
その一方で、交流があり松田自身「蒔絵界の先覚」と尊敬していた<ref> 松田権六 「吉野富雄の時代蒔絵鑑賞会」 『美術工藝 1月号 通巻第十号』 美術・工藝編集部 1942 </ref>吉野の「末金鏤という技法名は存在せず、末金鏤作とするが正しい」という説をも否定し、「末金鏤」を初期蒔絵の技法名とした。さらに、「末金鏤と中国ふうによばれているのは奈良時代には蒔絵という言葉が、まだ、できていなかった一証拠としてよい」として、「金銀鈿荘唐大刀」が日本で作られたものであることを示唆した。
その上で「この末金鏤すなわち蒔絵の技法は中国には今までのところみられないので、わが国でこのころ創始されて発達した」とし、日本起源説維持した。<ref> 松田権六 『うるしの話』 岩波新書 1964 </ref>
 
この松田による発表は、著書「うるしの話」が漆工芸界のベストセラーであったことも相まって、その後「末金鏤という初期の技法で作られた金銀鈿荘唐大刀が蒔絵の最初のもの」という通説が広く浸透していくこととなる。