「ラサロ・カルデナス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
10行目:
| 退任日=[[1940年]][[11月30日]]
| 出生日={{生年月日と年齢|1895|5|21|死去}}
| 生地={{MEX1893}}、[[ミチョアカン州]]キルパン
| 生死=死去
| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1895|5|21|1970|10|19}}
26行目:
政界の黒幕であった[[プルタルコ・エリアス・カリェス|カジェス]]元大統領に推されて、その傀儡として選ばれた大統領だったが、当選後はカジェスやその側近、腐敗の極みにあった既存の労働組合幹部を追放し、1917年革命憲法にうたわれながらほとんど実行されていなかった農地改革などの社会改革に乗り出す。農地改革の規模は2,000万ヘクタール、分配を受けた農民は77万人であった。
 
また1937年には鉄道の国有化、38年には石油産業の国有化に踏み切る。特に石油産業の国有化は米国の猛烈な反発を受け、接収の補償金支出を巡って財政危機に陥ったが、国民は熱狂的にこれを支持した。[[スペイン内戦]]に当たっては、最後まで共和政府側を支援した。3,000挺とも20,000挺ともいわれる小銃を送ったほか、人民戦線の敗北によって内戦が終結したあとは、約10,000人の亡命者をメキシコに受け入れた。この亡命者がメキシコの文化・芸術などに与えた影響は非常に大きかったと言われている。1937年には、ソ連を追われていた[[レフ・トロツキー|トロツキー]]の[[亡命]]も受け入れた。大統領を退任した後は[[1945年]]まで国防長官を務めた。1955年には[[レーニン平和賞|スターリン平和賞]]を受賞した。
 
カルデナスは、メキシコ史上もっとも左派色の強い大統領であり、それゆえ彼の政策への評価は人により大きく分かれるが、[[ベニート・フアレス]]と並びメキシコ史上もっとも国民の人気の高い大統領である。
 
なお、彼の息子[[:en:Cuauhtémoc Cárdenas|クアウテモク・カルデナス]]も政治家であり、やはりミチョアカン州知事を務めたあと、与党制度的革命党を離れ、[[中道左派]]政党の[[民主革命党 (メキシコ)|民主革命党]]PRD(PRD)を結成、その党首として数回大統領選に立候補しているほか、首都[[メキシコシティ]]の[[市長]]にも当選している(任期1997年-2000年)。クアウテモクの長男でラサロの孫にあたる[[:en:Lázaro Cárdenas Batel|ラサロ・カルデナス・バテル]]も同じく政治家を務めている
 
カルデナスの出身地[[ミチョアカン州]]の港町ロス・ラニトスは彼の功績にちなんで[[1970年]]に[[:en:Lázaro Cárdenas, Michoacán|ラサロ・カルデナス市]]と改名している。