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しかし、2012年2月に発生した側近のアメリカ領事館亡命未遂事件を端に発し、薄熙来に絡み、妻による英国人実業家殺害、一族の不正蓄財、マフィア撲滅運動における拷問問題などの薄熙来について数々のスキャンダルが報じられた。これによって、薄熙来は政治的に失脚した。
 
==事件==
===英国実業家殺害事件===
2011年11月、薄一族が懇意にしていた英国実業家(当時41歳)が重慶市のホテルの一室で死体となって発見された。この事件は当初、急性アルコール中毒による事故死として処理され、検分もされないまま火葬されていた。しかし、英国実業家は酒を全く飲まなかったため疑問の声があがった。
 
その後の再調査で、2011年[[11月15日]]に薄熙来の妻である谷開来は薄熙来の生活秘書と共謀し、薄熙来の生活秘書が英国実業家に青酸カリを飲ませて殺害させていたことが明らかになった。英国実業家は薄一族の不正蓄財した資産を海外移転する役割を担っていたが、谷開来が英国実業家と諍いを起こしたことが殺害のきっかけとなった。
 
===王立軍事件===
2012年[[2月6日]]、重慶市副市長である王立軍がアメリカへ亡命するために成都市のアメリカ総領事館に駆け込む事件が発生した。王立軍は直前まで重慶市公安局長として薄熙来が唱えたマフィア撲滅運動を主導しており、薄熙来の側近であった。
 
この情報はすぐに薄熙来及び北京にも伝達された。これにより、中国政府はアメリカ大使に対して王立軍の無条件の引き渡しを求めるなど、王立軍奪還に全力を注いだ。北京の情報機関が対テロ部隊を、重慶が武装警察をそれぞれ動員しており、成都市のアメリカ総領事館は異常な緊張感に覆われていた。
 
最終的にアメリカ側が折れ、黄奇帆重慶市長が総領事館に入ることに応じた。2012年[[2月7日]]に王は中国政府が安全を確保することに同意した3つの同一書面をアメリカ総領事、重慶市長、王立軍自身の3者を持つことを条件に、王立軍は重慶市長と一緒に総領事館に出ることに応じた。
 
王立軍事件の少し前の2012年[[1月28日]]に王立軍が薄家を訪れた際に、英国実業家死亡事件についてプレッシャーを感じた警察官が辞表を出してきたと報告した。薄熙来はこの報告について王立軍による脅しと解釈して重慶市公安局長を解任する意思を持ったが、王立軍の立場を考慮して重慶市公安局長の代わりに政治的実権のない重慶市副市長のポストを用意して「昇進」という体裁を保った。しかし、王立軍はこの人事に不信感を持ったことが亡命未遂事件のきっかけとなった。
 
なお、王立軍がアメリカ総領事館に駆け込む際に3枚のDVDを持ち込んでおり、その中には谷開来が英国実業家の殺害にかかわっていたことを示すデータが収められていると報じられていた。その後、亡命を断念した王立軍は北京にある特殊尋問基地に移された後は、英国実業家殺害事件について知っていることを証言した。
 
===不正蓄財事件===
王立軍事件に端を発した英国実業家殺害事件により、薄一族の豪華な生活が注目された。薄熙来は高級スーツを身にまとい、重慶に大豪邸を構えていた。また、海外留学している息子は豪華マンションに居住して高級車を乗り回す等の豪遊をしていた。共産党機関紙の[[人民日報]]は薄熙来の重慶市共産党委員会書記としての月給は1万元(約13万円)と報じていた。これについて、薄熙来は弁護士である妻の法律事務所の収入や息子の奨学金などの理由に弁明していたが、それで薄熙来の財産の説明にはならず、中国共産党幹部である薄熙来の権限による不正蓄財の疑いが濃厚であった。
 
また、薄熙来の兄や谷開来の姉は中国の大企業幹部であったが、これらは薄熙来の政治的影響力を利用したものとされていた。
 
その後、薄熙来の大連市長や遼寧省長を歴任中に知り合った大連実徳集団会長の徐明が、薄一族の不正蓄財の資金源の1人であることが明らかになった。
 
最終的に、薄一族が不正蓄財した資産は60億ドル(4800億円)にも登っていることが判明した。
 
==その後==
2012年2月に王立軍事件が発生した翌月の2012年3月に王立軍、谷開来、徐明だけでなく、夏徳仁元大連市書記や戴玉林元丹東市書記などのかつての薄熙来の腹心が次々と身柄拘束されていった。
 
2012年[[8月20日]]、谷開来に英国人殺害の罪で執行猶予2年の死刑判決が言い渡された。
 
2012年[[9月24日]]、王立軍に国家反逆罪、職権乱用罪、収賄罪、捜査技術違法使用罪等で懲役15年が言い渡された。
 
薄熙来自身は2012年2月の王立軍事件発覚後も暫くは政治的地位を保っており、3月に重慶市代表を率いて全人代に出席し、記者会見に応じている。しかし、その直後から共産党によって事実上の軟禁状態にされ、[[3月15日]]に重大な党規律違反があるとして重慶市共産党委員会書記を解任され、[[4月10日]]に中国共産党政治局員も解任され、[[9月28日]]に中国共産党党籍を剥奪され、[[10月26日]]に全国人民代表会議代表資格も取り消された。全国人民代表会議代表としての特権を奪われた薄熙来には妻が関与した殺害事件に絡んだ職権乱用、収賄、女性との不適切な交際などで刑事訴追の対象となる見込みが報じられている。
 
また、薄熙来の兄は2012年[[4月25日]]に大企業幹部を辞任した。
 
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