「ウジェーヌ・ヴォロ」の版間の差分

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[[ファイル:Panzerfaust helsinki.jpg|150px|right|thumb|[[パンツァーファウスト]]]]
1945年4月26日、[[ノイケルン区|ノイケルン]]の戦いで戦術学校はフランスSS突撃大隊の予備兵力として[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]からさほど離れていないハーヘルマンプラッツ広場([[:de:Hermannplatz|Hermannplatz]])に展開した。この日の終わりまでにフランスSS突撃大隊はノイケルンで14輌の[[T-34]]を撃破したが、このうち2輌はヴォロが撃破した戦車であった。[[パンツァーファウスト]]を用いた対戦車戦闘の達人であるヴォロは、戦友たちから「ゲヘナ」(Gégène、焦熱地獄<ref name="kanraku"/>)という渾名で呼ばれていた<ref name="EFdWSSp164">Agte 前掲書 p164</ref>。
 
=== 1945年4月29日 騎士鉄十字章受章 ===
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{{Cquote|この勲章を手に入れる、その願いだけで俺は戦ってきた。それが果たされた今、俺はもう死んでもいい。<br />(J'ai combattu avec un unique désir : gagner cette décoration. Maintenant c'est fait. Je peux mourir.)}}
 
かくして念願の騎士鉄十字章を手に入れたヴォロ武装伍長であったが、この騎士鉄十字章受章者に新たな命令が与えられた。それは斥候班を率いてホテル・カイザーホフ([[:de:Hotel Kaiserhof (Berlin)|Hotel Kaiserhof]])に向かい、クルケンベルクの司令部で用いるテーブル[[リネン]]を探せというものであった。
 
赤軍が周囲一帯を[[砲撃]]している中、地下鉄駅から地上に出た斥候班はホテルの廃墟に向かって全力で走り始めた。途中で上等兵1名が[[迫撃砲]]によって負傷して地下室に運ばれた(彼は3日後に捕虜となった)が、任務は続けられた。ホテルの廃墟から出て戻ってきた斥候班は大量の[[ナプキン|テーブルナプキン]]をクルケンベルクに届けたが、同時に持ち帰った上物の[[ワイン]]ボトル数本はクルケンベルクに見つからぬようにしていた<ref>同上 pp.447-448.</ref>。
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[[ベルリン市街戦]]の最終局面である1945年5月1日から2日にかけての夜、ウジェーヌ・ヴォロは[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将が指揮を執る小グループに加わってベルリン脱出を開始した。
 
[[シュプレー川]]を渡る際、クルケンベルクはベルリン出身で地理に明るい2名の将校を偵察として先発させたが、彼らは戻ってこなかった。そのため5月2日午前3時、クルケンベルクはフランス人義勇兵を率いて自ら偵察に向かった。クルケンベルク一行はシャリテ病院([[:de:Charité|Charité]])を通過しようとしたが、院長がソビエト赤軍の指揮下に入ることに同意して同病院は[[中立]]地帯と化していたため、彼らは行き先をシャウスゼョセー通り([[:de:Chausseestraße|ChausseestrasseChausseestraße]])に変更した<ref>Le Tissier 前掲書 p156</ref>。やがてクルケンベルク一行のもとに、前任の[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]長[[ヨアヒム・ツィーグラー]]SS少将(''SS-Brigf.'' [[:de:Joachim Ziegler|Joachim Ziegler]])と「ノルトラント」師団の一部の将兵が合流した。これによってクルケンベルクのグループはヴォロも含め、[[騎士鉄十字章]]受章者が4人もしくは5人いる状況になった<ref>Forbes 前掲書 p458</ref>。
 
その後、クルケンベルクと共にシュプレー川を渡った者たちは[[小隊]]規模のいくつかのグループに分かれた。そのグループの1つは[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉、[[フランソワ・アポロ]]とヴォロを含む12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士と[[スカンディナヴィア]]人義勇兵から成っていた。西を目指して進む彼らのグループには2輌のティーガー重戦車<ref group="注">原文表記は « two Tiger tanks. »(出典はSaint-Loupの著書p495)。[[ティーガーI|ティーガーⅠ重戦車]]か[[ティーガーII|ティーガーⅡ重戦車]]かは明示されていない。<br /><br /></ref>が随伴していた<ref name="FEp459">同上 p459</ref>。