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'''矢部 次郎'''(やべ じろう、[[1978年]][[5月26日]] - )は、[[奈良県]]出身の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー]]。2013年より[[奈良クラブ]]の監督を務める
 
== 経歴 ==
2012年より、[[奈良クラブ]]のゼネラルマネージャー兼アンバサダーを務める<ref name="intai">{{Cite web|url=http://naraclub.jp/archives/7162|title=矢部次郎選手現役引退 GM兼アンバサダー就任のお知らせ|publisher= 奈良クラブ|date=2011-12-20|accessdate=2011-12-21}}</ref>、また同年7月3日付で[[羽中田昌]]が監督を辞任したため[[監督代行]]も務め、<ref name="kantoku">{{Cite web|url= http://naraclub.jp/archives/10580 |title=羽中田昌監督・武井雅之コーチ 辞任のお知らせ|date=2012-07-03 |publisher=奈良クラブ|accessdate=2012-10-15}}</ref> 翌年1月9日からは正式に監督に就任した。<ref>{{Cite web|url=http://naraclub.jp/archives/17037|title=矢部次郎監督 続投のお知らせ|date=2013-01-09|publisher=奈良クラブ|accessdate=2012-01-10}}</ref>
=== プロ入り前 ===
[[名古屋市]]で4人兄弟の末弟として生まれる<ref name="asahi_20120227">朝日新聞、2012年2月27日付朝刊、奈良地方面、P.35</ref>。父親の仕事のためで4歳で[[岡山市]]に、小学校1年生の時に[[奈良市]]に転居した<ref name="asahi_20120227"/>。8歳上の兄がプレーしていたことと『[[キャプテン翼]]』の影響があり、小学校に入るとサッカーに魅かれて3年生の時に地元の少年団・二名FCに入団した<ref name="asahi_20120227"/><ref name="asahi_20120226">朝日新聞、2012年2月26日付朝刊、奈良地方面、P.34</ref>。週3回の練習では物足りず、毎日1時間は家の前で練習していたという<ref name="asahi_20120227"/>。2歳上に[[藤井健太]]、2歳下には[[林丈統]]がいるなど二名FCではチームメートに恵まれていた<ref name="asahi_20120227"/>。[[奈良市立二名中学校|二名中学]]に進んでサッカー部に入部し、3年生の時には県大会で優勝して県選抜にも選ばれている<ref name="asahi_20120227"/>。
 
全国大会出場を目指し、県内の強豪である[[奈良育英高校]]に進学した<ref name="asahi_20120227"/>。同期には[[中谷勇介]]、[[東幸一]]がいた。2学年上の[[楢崎正剛]]らの技術力の高さに衝撃を受けたという<ref name="asahi_20120228">朝日新聞、2012年2月28日付朝刊、奈良地方面、P.30</ref>。1年生の時、チームは[[全国高等学校サッカー選手権大会|選手権大会]]でベスト4まで進出したが、登録メンバーには入れなかった。2年生になると70名を超える部員の中でレギュラーとして出場する機会が増えたが、[[自転車]]登校中に乗用車と衝突し、右足の靱帯を[[損傷]]して全治半年の重傷を負った<ref name="asahi_20120228"/>。筋力トレーニングなどを重ねて11月頃には回復して試合の終盤から出場するようになったが、選手権大会の県予選で[[PK戦]]のキッカーを任されて失敗し、チームも敗れた<ref name="asahi_20120229">朝日新聞、2012年2月29日付朝刊、奈良地方面、P.34</ref>。
 
3年生の夏に初めて[[名古屋グランパス]]の練習キャンプに参加し、以降も練習などに参加して[[ドラガン・ストイコビッチ]]や[[小倉隆史]]らのプレーに触れた事で、プロに進みたいと明確に思い始めた<ref name="asahi_20120302">朝日新聞、2012年3月2日付朝刊、奈良地方面、P.31</ref>。11月にサッカー部監督の[[上間政彦]]を通じてグランパスから入団のオファーを受けたが、父親からは進学して[[教育職員免許状|教員免許]]を取るよう勧められて進路を悩んだ<ref name="asahi_20120302"/>。上間から「自分の進路は自分で決めろ」と言われたのがきっかけでプロ入りを決断したという<ref name="asahi_20120303">朝日新聞、2012年3月3日付朝刊、奈良地方面、P.31</ref>。同年は自身初の[[第75回全国高等学校サッカー選手権大会|選手権大会]]に出場し、初戦の2回戦は勝利したがベスト16で[[大島秀夫]]らを擁する[[前橋育英高等学校|前橋育英]]と対戦し、PK戦で敗れた。
 
=== プロサッカー選手時代 ===
グランパスに入ると、当初は練習についていくのが精一杯で、レギュラー陣とのレベルの違いを痛感させられた<ref name="asahi_20120306">朝日新聞、2012年3月6日付朝刊、奈良地方面、P.35</ref>。一方、中谷や[[古賀正紘]]ら同期入団の5名とは苦楽を分かち合い、後々まで親交が続いている<ref name="asahi_20120306"/>。1年目の[[1997年]]は[[Jサテライトリーグ|サテライト]]の試合に出場するだけで[[Jリーグ]]の試合には出られず、練習後に1人で自主練習を繰り返していた<ref name="asahi_20120307">朝日新聞、2012年3月7日付朝刊、奈良地方面、P.26</ref>。一方、1軍の練習には呼ばれるなど監督の[[カルロス・ケイロス]]から一定の評価は受けていた<ref name="asahi_20120307"/>。しかし同年末に監督が[[田中孝司]]に代わると1軍と2軍の線引がより明確になり、2、3年目も1軍での出場はなかった<ref name="asahi_20120307"/>。[[1998年]]頃には[[大熊清]]の斡旋で[[東京ガスサッカー部|東京ガス]]の練習への参加を希望したが、チーム事情により許可されなかった<ref name="allabout_1">[http://allabout.co.jp/gm/gc/212000/ All About 矢部次郎選手インタビュー (2005年1月25日) p.1]</ref>。
 
同期の選手が活躍する中で焦りを感じ、4年目の2000年は従来以上に率先して練習に取り組んだが、引き続き出場機会はなかった<ref name="asahi_20120308">朝日新聞、2012年3月8日付朝刊、奈良地方面、P.26</ref>。5月になりチームの強化担当者に相談したところ[[サガン鳥栖]]からのオファーを提示され、出場機会を求めて[[期限付き移籍|レンタル移籍]]を決めた<ref name="asahi_20120308"/>。6月に[[三原廣樹]]とともにサガンに移籍すると、同年代の選手が多くアットホームな雰囲気が合い、すぐにチームに溶けこむことができた<ref name="asahi_20120309">朝日新聞、2012年3月9日付朝刊、奈良地方面、P.31</ref>。初めて先発した移籍3試合目の[[大宮アルディージャ]]との試合でJリーグ初ゴールを決め<ref name="asahi_20120309"/>、さらに翌々戦の[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]との試合でも先発して三原とともにゴールを決めて2-0で勝つ[[番狂わせ|ジャイアント・キリング]]に貢献し、チームメートやサポーターから信頼を受けるようになった<ref name="asahi_20120310">朝日新聞、2012年3月10日付朝刊、奈良地方面、P.31</ref>。一方、直前の練習で[[竹元義幸]]を負傷させてしまっており、複雑な気持ちがあったという<ref name="allabout_2">[http://allabout.co.jp/gm/gc/212000/2/ All About 矢部次郎選手インタビュー (2005年1月25日) p.2]</ref>。三原とともに[[サッカーのフォーメーション|ダブルボランチ]]を務めることでチームのバランスが良くなり、順位も上昇していった<ref name="allabout_2"/>。
 
[[2001年]]は2月の[[キャンプ (日本プロサッカーリーグ)|キャンプ]]から参加できたことでチームメートの理解が深まり、中心選手として[[Jリーグ ディビジョン2|J2]]33試合に出場した<ref name="asahi_20120311">朝日新聞、2012年3月11日付朝刊、奈良地方面、P.30</ref>。出場を続けることで試合全体の流れを読み取れるようになり、1年を通じてリーグ戦を戦うコンディション調整も習得できたという<ref name="asahi_20120311"/>。[[2002年]]は監督の[[副島博志]]による理論的な指導と入念な練習への準備があって非常にプレーがしやすく、リーグ戦40試合に出場した<ref name="allabout_3">[http://allabout.co.jp/gm/gc/212000/3/ All About 矢部次郎選手インタビュー (2005年1月25日) p.3]</ref>。また、[[ダビド・ビスコンティ]]のプレーからは学ぶ点が多かったという<ref name="allabout_3"/>。同年コーチの[[日本サッカー協会指導者ライセンス|C級ライセンス]]を取得した。
 
[[2003年]]はチームがリーグ最下位、自身も13試合のみの出場に終わったことに危機感を覚え、個人トレーナーと契約するなどオフは肉体改造やメンタルトレーニングに重点をおいた<ref name="asahi_20120313"/>。[[2004年]]は自主トレの効果を感じつつも、2001年末から非常に悪化していた<ref name="asahi_20120313">朝日新聞、2012年3月13日付朝刊、奈良地方面、P.26</ref>経営問題に関する報道が続き、チームの雰囲気は非常に悪くリーグ戦は11位に終わった<ref name="asahi_20120314">朝日新聞、2012年3月14日付朝刊、奈良地方面、P.26</ref>。自身はリーグ戦30試合に出場したが、11月の契約更改で10名以上のチームメートとともにチームを解雇された<ref name="asahi_20120314"/>。
 
現役続行を目指して2度の[[Jリーグ合同トライアウト|トライアウト]]に参加したがJ1やJ2のチームからオファーはなく、諦めかけた頃に[[アルテ高崎|FCホリコシ]]から誘いを受けて入団した<ref name="asahi_20120315">朝日新聞、2012年3月15日付朝刊、奈良地方面、P.35</ref>。[[アマラオ]]らも加入した[[2005年]]はJ2昇格を目指していたが、[[日本フットボールリーグ|JFL]]では8位に終わり、成績には不満を感じたという<ref name="asahi_20120317">朝日新聞、2012年3月17日付朝刊、奈良地方面、P.30</ref>。チームにはアマチュア契約の選手も多く、アルバイトを奨励するチーム方針もあって自身もサッカースクールでコーチを務めた<ref name="asahi_20120316">朝日新聞、2012年3月16日付朝刊、奈良地方面、P.26</ref>。[[2006年]]は年初のチーム練習で[[股関節]]を故障したが、キャプテンだったため簡単に欠場できず、休み休みプレーを続けた<ref name="asahi_20120317"/>。しかし本来のプレーは全くできず、チームも低迷して7月に解雇を告げられ、最後の試合にフル出場して退団した<ref name="asahi_20120317"/>。
 
=== 最初の現役引退 ===
2006年8月に奈良県に戻り、奈良でJリーグを目指すクラブに参加したいと考え、各地で少年サッカーの練習に参加するなど地道にネットワークを広げた<ref name="asahi_20120318">朝日新聞、2012年3月18日付朝刊、奈良地方面、P.34</ref>。10月には高校時代の友人らとともにサッカースクールを設立している<ref name="asahi_20120318"/>。活動が徐々に知られるようになり、2007年には[[第62回国民体育大会|国体]]の[[国民体育大会サッカー競技|成年男子サッカー]]の監督就任を打診され、即答で引き受けた<ref name="asahi_20120318"/>。チーム編成のため[[関西サッカーリーグ|関西リーグ]]から[[奈良県社会人サッカーリーグ|奈良県リーグ]]3部まで多くのチームを回り、ポテンシャルの高い選手が多いことを知ったという<ref name="asahi_20120318"/>。社会人の選手がほとんどのため午後8時から練習を行なったが、県内では夜間練習の設備が少なく苦労した<ref name="asahi_20120319">朝日新聞、2012年3月19日付朝刊、奈良地方面、P.29</ref>。国体予選では初戦で大阪府代表に敗れたが、解散日に[[フットサル]]をするなどチームの雰囲気はまとまりがあった<ref name="asahi_20120319"/>。
 
=== 現役復帰 ===
国体予選終了後はJリーグ昇格を目指すチームを求めて県内を回ったが、なかなか賛同は得られなかった<ref name="asahi_20120319"/>。その中で都南クラブの代表と監督が考えに賛成し、2008年4月に「奈良クラブ」に名称を変更して活動を始めた<ref name="asahi_20120320">朝日新聞、2012年3月20日付朝刊、奈良地方面、P.32</ref>。また、股関節の快復もあって自身も現役に復帰している。1年半のブランクがあってコンディション調整などがうまくいかず、チームも練習環境を整えるのに苦労したが、同年の[[関西府県リーグ決勝大会]]で優勝して関西リーグ2部へ昇格した<ref name="asahi_20120320"/>。選手が自信をつけてきた[[2009年]]は関西リーグ2部で優勝し、[[第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]でも県代表になった<ref name="asahi_20120320"/>。本体会では初戦で勝ち、2回戦で[[アルビレックス新潟]]と対戦した。試合は0-3で敗れたが、試合後にアルビレックスのサポーター約3,000人から奈良クラブコールがあり、非常に感動してサッカーの素晴らしさを再認識したという<ref name="asahi_20120321">朝日新聞、2012年3月21日付朝刊、奈良地方面、P.27</ref>。
 
[[2010年]]は[[特定非営利活動法人|NPO法人]]を設立し、自身は現役を続けながら練習メニューの考案やスポンサーへの営業などのチーム運営に携わった<ref name="asahi_20120321"/>。一方で従来の方法に限界を感じ、[[2011年]]は初めてプロ監督である[[吉田悟]]を招聘するとともに、練習時間を夜間から午前中に切り替えた<ref name="asahi_20120322">朝日新聞、2012年3月22日付朝刊、奈良地方面、P.33</ref>。これによりチームに参加できなくなる選手も生じたが、強化に成功して関西リーグ1部で優勝を果たした<ref name="asahi_20120322"/>。自身もプレーや営業、少年サッカーの指導などに集中できるようになったという<ref name="asahi_20120322"/>。同年をもって、現役を再び引退した。
 
=== 現役引退後 ===
[[2012年]]より、[[奈良クラブ]]のゼネラルマネージャー兼アンバサダーを務めるに就任した<ref name="intai">{{Cite web|url=http://naraclub.jp/archives/7162|title=矢部次郎選手現役引退 GM兼アンバサダー就任のお知らせ|publisher= 奈良クラブ|date=2011-12-20|accessdate=2011-12-21}}</ref><ref name="asahi_20120324">朝日新聞2012年3月24日付朝刊、奈良地方面、P.31</ref>。また同年7月3日付で[[羽中田昌]]が監督を辞任したため[[監督代行]]も務め<ref name="kantoku">{{Cite web|url= http://naraclub.jp/archives/10580 |title=羽中田昌監督・武井雅之コーチ 辞任のお知らせ|date=2012-07-03 |publisher=奈良クラブ|accessdate=2012-10-15}}</ref> [[2013]]1月9日からは正式に監督に就任した。<ref>{{Cite web|url=http://naraclub.jp/archives/17037|title=矢部次郎監督 続投のお知らせ|date=2013-01-09|publisher=奈良クラブ|accessdate=2012-01-10}}</ref>
 
== 所属チーム ==
 
== エピソード ==
*2000年に、[[奈良県]]出身の女性と結婚している<ref name="asahi_20120310"/>。
* テレビ朝日系列で放送されている[[やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜]]に番組のメインMCを務める[[ナインティナイン]]の[[矢部浩之]]と同じ名字だったことから何度か番組に出演している。最初はハーイ!やべっちにおけるビデオ出演だったが、その後矢部浩之がフットサルをする企画では彼と同じチームのメンバーとして出演した。
*中学校3年生まで習っていた絵を描くことが趣味で、[[奈良クラブ]]では[[エンブレム]]のデザインを考案している<ref name="asahi_20120301">朝日新聞、2012年3月1日付朝刊、奈良地方面、P.29</ref>。
* 2006年、[[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[アルテ高崎]]でキャプテンを務めた。
* テレビ朝日系列で放送されている[[やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜]]に番組のメインMCを務める[[ナインティナイン]]の[[矢部浩之]]と同じ名字だったことから何度か番組[[やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜]]に出演している。最初はハーイ!やべっちにおけるビデオ出演だったが、その後矢部浩之がフットサルをする企画では彼と同じチームのメンバーとして出演した。
* 引退後、奈良に戻り[[奈良クラブ|都南クラブ]]で現役復帰。
* 高校の先輩である[[柳本啓成]]が運営するYANAGI FIELDのコーチを務めていたが退社後、奈良クラブを現役でプレーしつつ奈良クラブのジュニアのコーチも兼任している。
 
==脚注==
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
*[[名古屋グランパスの選手一覧]]
*[[サガン鳥栖の選手一覧]]
 
* [http://blog26.fc-ninoco.com/ 公式ブログ ]
* {{Twitter|yabejiro26}}
* [http://www.sagan-kizuna.com/profile/?id=527 サガントス絆プロジェクトシリアルNo. 00526 ]
* [http://allabout.co.jp/sports/domesticsoccer/closeup/CU20050125A/index.htm All About (矢部次郎選手インタビュー 2005年1月25日)]
* [http://blog.nikkansports.com/soccer/kyusyu/murata/20070409.html 日刊スポーツブログ (矢部次郎インタビュー 2007年4月9日)]
* [http://www.j-league.or.jp/csc/report/report_yabe.html Jリーグキャリアサポートセンター ]
* [http://www.joyn-ss.net/ ジョインサッカースクール ]
* [http://www.naraclub.jp/ 奈良クラブ]
 
{{奈良クラブのメンバー}}
6,692

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