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{{citation style|date=February 2008}}
 
'''数学の哲学'''(すうがくのてつがく、{{lang-en-short|philosophy of mathematics}})は、[[哲学]]の一分野で、[[数学]]を条件付けている哲学的前提や哲学的基礎、そして数学の哲学的[[意味]][[研究]]するものである。'''数理哲学'''とも言われる。
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また、'''数学的哲学'''(すうがくてきてつがく、{{lang-en-short|mathematical philosophy}})という[[用語]]が、しばしば「数学の哲学」と[[同義語]]として使われる<ref>例えば、Edward Maziarsが1969年に記した書評({{cite journal |first=Edward A. |last=Maziars |title=Problems in the Philosophy of Mathematics (Book Review) | journal=Philosophy of Science | volume=36 | issue=3 |pages=p. 325 |year=1969}})において、「哲学的数学
(これは主として数学者が行う[[仕事]]である)と数学的哲学(これは通常哲学者の専門分野である)とを区別」しようと提案するとき、彼は、「数学的哲学」を「数学の哲学」の同義語として使っている。</ref>。しかしながら、「数学的哲学」は、別の意味を少なくとも二つ持っている。一つは、例えば[[スコラ学]]の神学者の仕事や[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]や[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]の体系が目標にしていたような、[[美学]]、[[倫理学]]、[[論理学]]、[[形而上学]]、[[神学]]といった哲学的主題を、その主張するところでは、より正確かつ厳密な形へと形式化するプロジェクトを意味する。さらに、個々の数学の実践者や、考えかたの似た現場の数学者の共同体が日頃抱いているものの考え方(=哲学)を意味する。
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== 数学の哲学の歴史概略<!-- Historical overview --> ==
歴史上、多くの[[思想家]]が、数学とは何かに関して彼らの考えを明らかにしてきた。今日でも数学の哲学者たちの中には、この種の問いとその成果をあるがまま説明しようとする人々もいるが、他方で、単純な解説に飽きたらず、批判的分析へと進む役割をもって任じる人々もいる。
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[[西洋哲学]]と[[東洋哲学]]の両方に、数学的哲学の[[伝統]]がある。西洋の数学の哲学は、数学的対象の[[存在論|存在論的地位]]を研究した[[プラトン]]と、[[論理学]]や[[無限]](実無限と可能無限)に関する諸問題を研究した[[アリストテレス]]にまで遡る。数学に関する[[ギリシア哲学]]は、彼らの[[幾何学]]の研究の強い影響の下にあった。かつてギリシア人は、1は[[数]]ではなく、むしろ任意の長さの単位であるという意見を持っていた。数は、多<ref name="多">単位がいくつあるかということ。</ref>であると定義された。それゆえ、例えば、3は、単位長の多<ref name="多"/>を表しており、本当のいみの数では決してなかった。また同様の理由で、2は数ではなく、1対(つい)という基本概念であるとする議論が行われた。この理解は、「直線・辺・コンパス」という、たぶんに幾何学的なギリシアの視点に由来している。その視点とは、幾何学的問題において描かれたいくつかの線が最初に描いた任意の長さの線との比で測定されるのと同様に、数からなる線上に置かれたそれぞれの数は、任意の初めの「数」つまり1との比で測定される、というものである。これらの初期のギリシアの数の概念は、後になって、2の[[平方根]]が[[無理数]]であるという発見によって、打ち倒された。[[ピュタゴラス]]の門人であるヒッパソスは、単位正方形の対角線は、その辺と通約不能であることを示した。換言すると、彼は、単位正方形の対角線とその辺の比を正確にあらわす(有理)数が存在しないことを証明した。これが原因となり、ギリシアの数学の哲学は再検討されることとなった。伝承によれば、この発見によって傷つけられたピュタゴラス学派の学徒達は、[[ヒッパソス]]が彼の異端な考えを広めるのを防ぐために、彼を殺害した。
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[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]とともに、焦点は数学と論理学の関係へと、強力に移動した。この見方は[[ゴットロープ・フレーゲ|フレーゲ]]とラッセルの時代を通して数学の哲学を支配したが、[[19世紀]]終期と[[20世紀]]初頭における発展によって疑問を付されるようになった。
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20世紀の中ごろ、[[圏論]]として知られる新たな数学理論が、[[自然言語]]による数学的思考に対する新たな競争者<!-- a new contender for the natural language of mathematical thinking -->として登場した(Mac Lane 1998)。しかしながら、20世紀が進むにつれ、まさに当初提起された基礎付けに関する疑問自体が如何によく基礎付けられるのか、というところへ哲学的関心は広がっていった。[[ヒラリー・パトナム]]は、20世紀後半の35年間の状況についての一つの共通見解を、次のように要約した。<!--
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