「牧野忠訓」の版間の差分

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海ボチャン (会話 | 投稿記録)
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慶応4年([[1868年]])、[[戊辰戦争]]が起こると、忠訓は河井と共に戦争回避のため、[[奥羽越列藩同盟]]と新政府の双方と距離を置きながら、公武調和の建言書を新政府に提出する。さらに河井自身は新政府の北越平定軍に乗り込んで停戦を求めたが、これらは全て新政府によって握りつぶされた。このため忠訓は5月4日、河井と共に奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦うことになる。[[榎峠の戦い]]で河井の指揮の前に新政府軍は一時圧倒されるが、結局圧倒的な物量を誇る新政府軍の前に敗れ、5月19日に[[長岡城]]は落城し、忠訓は忠恭らと共に[[会津]]に逃れた。
 
しかし7月24日、河井率いる長岡藩兵が沼沢地[[八町沖|八丁沖]]を渡るという奇襲作戦で、長岡城を再び奪還した。ところがこの奇襲作戦で河井が重傷を負ったため、長岡軍の士気は著しく低下し、7月29日には再び新政府軍によって長岡城は奪われた。忠訓や河井らは会津に逃れたが、ここで河井は傷がもとで死去した。そして忠訓も[[仙台藩]]に逃れた末の9月23日に、新政府軍に降伏した。
 
新政府に逆らった逆賊として、忠訓は謹慎処分に処された上、長岡藩は所領、官位共に没収とされてしまった。しかし牧野氏が名族であることも考慮され、12月22日に忠訓は藩主の座を廃され、代わって忠恭の四男・[[牧野忠毅|忠毅]]を藩主として2万4000石に減知の上で存続を許された。
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{{越後長岡藩主|牧野氏|13代|1867年 - 1868年}}
 
{{DEFAULTSORT:まきの たたくに}}
[[Category:牧野氏|たたくに]]