「シンフォニア・ダ・レクイエム」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 3 件をウィキデータ上の (d:Q2307979 に転記)
編集の要約なし
9行目:
ブリテンの回想では、委嘱条件は「1939年9月頃に『交響的作品ならば580[[ポンド (通貨)|ポンド]](≒1万円(当時))、序曲や行進曲なら、その半分から3分の1の委嘱料を支払う。[[1940年]]5月までに東京に送れ」というものだったようである。承諾後はマイペースで作曲していたものの、1940年[[3月21日]]になり、日本側から作品の内容に関する問い合わせがあり、ブリテンはそれに返事をする一方、「馬鹿に完成を急がされている」とも語っている。また、その最中のインタビューで「曲の名前は『シンフォニア・ダ・レクイエム』というものになる。ただ、それはあくまで名前だけ。そして、両親の思い出に捧げようと思っている」と述べたが、何人かの友人が「その題名は日本政府を誤解させる可能性がある」と忠告してきている。
 
6月頃に作品が完成し送付<ref>ブリテンは別の回想で「期限まで時間がなかったので、別の目的ですでに出来上がっていたあの作品(=「シンフォニア・ダ・レクイエム」)を送るしかなかった」と述べている。</ref>、ブリテンは約束どおり日本側から委嘱料を受け取ったが、なぜか一桁多い額が送付されたらしく、それに気をよくしたかブリテンは9月頃に来日する気にもなっていた。ところが11月になり駐米在英日本大使館から「演奏拒否」の知らせが届き、一時は寝込むほどの気を落としたが、後にホークスに「たくさんのお金を貰って、それを全部使っちゃっただけの話さ」とも言っている。送られた側の日本では、通説どおりの論争が起き、「英霊に対する鎮魂」などとこじつけようとする動きもあったが、写譜が間に合わなかったこともあり、「折を見て演奏する」ことになったものの、[[太平洋戦争]]開戦もあって結局沙汰やみになってしまった。
 
<references/>