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[[幽州]]刺史となり、建威将軍・使持節[[護烏桓校尉]]に任命された。当時、征北将軍の程喜が[[北京市|薊]]に駐屯していた。[[尚書]]になっていた袁侃は、程喜がかつて同僚であった[[田豫]]を讒言で陥れたことがあったことから、杜恕に警戒するよう忠告した。しかし杜恕は気に留めなかった。
 
[[嘉平 (魏)|嘉平]]元年([[249年]])、[[鮮卑]]族の子息が法令に違反したため、杜恕はその子の1人を斬ったが、報告書を提出しなかった。程喜は司馬の宋権を使って、弾劾しないことを条件として、自分に迎合するよう促してきた。しかし杜恕はそれを聞かなかった。この時の手紙によれば、当時52歳であったという(『杜氏新書』)。
 
程喜の弾劾により、杜恕は[[廷尉]]の元に送られ一時死罪となったが、父の功績に免じて死一等を減じられ平民となり、章武郡に移された。陳留郡の阮武は杜恕に対し、暇な身分となったのだから、独創的な見解を研くべきだと勧めた。杜恕は配所で8節の『体論』と1篇の『興性論』という書を残し、嘉平4年([[252年]])にそこで亡くなった。