「坂口祐三郎」の版間の差分

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父親を知らず、4歳で母親に捨てられ、祖父方で育てられる。
 
[[1960年]](昭和35年)、[[福岡県立八女工業高等学校]]2年生の折に、本人の知らない間に同級生の女子が応募した[[東映]]の「第7期ニューフェイス]]第7期に合格した。坂口は「学校が終わってから」と、1期ずらしてもらう。
 
[[1961年]](昭和36年)、高校卒業後、[[東映]]へ第8期ニューフェイス」にとして社。同期には[[藤江リカ]]がおり[[俳優座]]養成所に入り演技を学んだあと、[[東映京都撮影所]]に配属される。当時は[[嶋田景一郎]]、[[林彰太郎]]と共に、「三野郎」として売り出されていた。この年『[[新諸国物語 黄金孔雀城]]第二部』で映画デビュー。
 
[[1964年]](昭和39年)、『[[走れ左源太]]』([[テレビ朝日|NET]] / [[東伸テレビ映画]])に出演した際に、撮影所所長から'''坂口 祐三郎'''の芸名をもらう。その後、京都市内に祖母と二人暮らしするなか、端役か準主役が年に数本という状況が数年続く。
 
[[1967年]](昭和42年)、前年暮れに呼び出され、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]初のカラーTV番組『'''[[仮面の忍者 赤影]]'''』の主役忍者「'''赤影'''」に抜擢される。この番組は大人気となり、延長を重ね、1年間の放映となった。
 
が、その後赤影のイメージが強すぎて活躍の機会に恵まれなかった。また本人も、当時東映で主流となっていた「実録やくざ物」への出演を誘われたこともあったが、赤影へのこだわりがあったので「やくざ役」を避けていたという。また、こうした華やかなスターのイメージとは裏腹に、『赤影』主演時代も決して収入的に恵まれたわけではなかった<ref>坂口祐三郎・赤影 愛と復讐(新・赤影製作評議会編)(1999年、ワイズ出版)より</ref>。