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MiraModreno (会話 | 投稿記録)
1stネームをファミリー・ネームに一本化(1stネームの使用は百科事典として適切とは言えない)&ジャンセンにリンク・ディーンに仮リンク
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| URL =
| Current_members =
| Past_members = [[デヴィッド・シルヴィアン]]<br />[[ミック・カーン]]<br />[[スティーヴ・ジャンセン]]<br />[[リチャード・バルビエリ]]<br />{{仮リンク|ロブ・ディーン|en|Rob Dean}}
| Notable_instruments =
}}
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== 歴史 ==
デヴィッド・シルヴィアンとその弟[[スティーヴ・ジャンセン]]、デヴィッドの親友であった[[ミック・カーン]]を中心に結成。ミック・カーンの兄の結婚式にバンドとして最初のお披露目をした。
 
当初はミック・カーンをリードボーカルとして練習していたが、本番直前になって怖じ気づいたミックカーンが、デヴィッド・シルヴィアンに無理矢理頼み込んでボーカルを代わってもらい、以降シルヴィッドアンがリードボーカルとなった。
 
その後高校の同級であった[[リチャード・バルビエリ]]を誘い、更にオーディションで[[{{仮リンク|ロブ・ディーン]]|en|Rob Dean}}を迎え入れ、デビュー当初のバンドの形態となった。
 
デビュー当初はアイドルとして宣伝されたグループだったが、英国の音楽シーンではほとんど人気が無かった。逆に[[日本]]では、初来日でいきなり[[日本武道館|武道館]]での公演を行うなど、[[ビッグ・イン・ジャパン]]的な持て囃され方をされていた。初期のサウンドは、主に[[黒人音楽]]や[[グラムロック]]をポスト・パンク的に再解釈したものであり、そうしたフリーク的なアプローチを韜晦するようなひねくれたセンスや、ややダウナーな歌詞が特徴であった。
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その後、[[アリオラ・レコード]]から[[ヴァージン・レコード]]へ移籍し、「Gentlemen Take Polaroids(孤独な影)」と「Tin Drum(錻力の太鼓)」をリリース。この2作で、バンドはアフリカン・ビートや東洋音楽の意匠を取り入れ、独特のリズム解釈やグルーヴを追求。また、後年のメンバーの音楽性の萌芽といえるアプローチもあり、事実エスノ色とアンビエント色の入り混じった「Tin Drum」からのシングル「Ghosts(ゴウスツ)」はバンド最高のヒットを記録した。
 
なお、オリジナルメンバーのロブ・ディーンが5作目の制作前に脱退したため、最後のツアーでは当時[[一風堂 (バンド)|一風堂]]の[[土屋昌巳]]がギターを担当した。
[[ファイル:Japan_Nov82-curtain.JPG‎|thumb|230px|左からジャンセン、カーン、シルヴィアン、バルビエリ、土屋 (1982年)]]
 
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==エピソード==
*シンコーミュージックより1983年に創刊された写真集、「JAPAN PHOTO STORY」によるとバンド名の由来に特に意味はなく、「なんとなくJAPANという響きが浮かんだだけ」とデヴィッド・シルヴィアンは述べている
*原曲のクオリティを下げないようにライブでの再現性には気を配っていた。同上の「JAPAN PHOTO STORY」ではツアーの際、シルヴィッドアンが自ら機材の入念なチェックをする写真が収められている。ちなみにライブではシーケンサーは使用されず、演奏不可能なトラックはオープンリールのMTR[[マルチトラック・レコーダー|MTR]]を使い、ドラムのスティーブ・ジャンセンがヘッドフォンでモニターしていた。
*解散コンサートの日本公演最終場所は愛知県の名古屋市公会堂(当時)。1982年12月17日であった。
 
 
== 関連アーティスト ==