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'''島津 久逸'''(しまづ ひさやす、[[嘉吉]]元年([[1441年]]) - [[明応]]9年([[1500年]]))は、[[室町時代]]の[[島津伊作家|伊作氏]]一族。伊作久逸(いさくひさいつ)ともいう。島津家9代当主・[[島津忠国]]の第3子であるが伊作氏の養子に行った人物。子は[[島津善久|伊作善久]]([[島津忠良|伊作忠良]]の父)。
 
== 概要 ==
[[薩摩国|薩摩]]の[[守護大名]]島津氏の早い時期の分家(鎌倉時代)である[[伊作家]]の7代当主・[[島津犬安丸|犬安丸]]が幼くして急死したため、跡を継いだ。
 
島津一族といえど、遠い関係にある伊作氏は薩摩守護島津氏の家臣格の家柄であった。
[[文明_(日本)|文明]]5年([[1473年]])、久逸は島津家10代当主・[[島津立久|立久]]の命で[[日向国|日向]][[櫛間]]にて[[伊東氏]]に備えていた。[[飫肥城|飫肥]]の[[新納氏]]は立久の死後、本家を継いだ11代当主・[[島津忠昌|忠昌]]に久逸を[[伊作城|伊作]]へ還すように願い出て、忠昌はこれを聞き入れる。久逸はこの命に反発、日向の[[伊東氏]]や[[豊後国|豊後]]の[[大友氏]]とともに[[飫肥城]]を攻撃、忠昌に叛旗を翻す。久逸の連合軍は忠昌の居城であった[[鹿児島市|鹿児島]][[清水城 (薩摩国)|清水城]]に迫ったため、忠昌は妻子を[[伊集院町|伊集院]][[一宇治城]]に避難させるまでになった。
 
[[文明_(日本)|文明]]165年([[14841473年]])、忠昌伊作久逸分家、守護である島津家10代当主・[[相州家島津立久|立久]]の命で[[島津友久日向国|日向]][[薩州家櫛間]]にて[[島津国久伊東氏]]ら島津一族を率に備えてて出陣した。末吉で敗れた久逸[[飫肥城|飫肥]]の[[新納氏]]櫛間に退却、同年降伏し立久の死後本家を継いだ11代当主・[[島津忠昌|忠昌]]に久逸を[[伊作城|伊作]]戻る還すように願い出て、忠昌はととなっれを聞き入れた。
 
伊作久逸は、薩摩守護島津氏からのこの命に反発、日向の[[伊東氏]]や[[豊後国|豊後]]の[[大友氏]]に助力を請い[[飫肥城]]を攻撃、忠昌に叛旗を翻した。
伊作に戻った久逸だったが、[[明応]]3年([[1494年]])、嫡子の[[島津善久|善久]]が下男により殺害されるという事件が起こった。久逸自身も[[薩州家]]の内紛に巻き込まれ、明応9年([[1500年]])に薩州家の[[島津忠興 (薩州家)|島津忠興]]に攻められ戦死した。享年60。
 
久逸ら連合軍は忠昌の居城であった[[鹿児島市|鹿児島]][[清水城 (薩摩国)|清水城]]に迫ったため、守護の忠昌は妻子を[[伊集院町|伊集院]][[一宇治城]]に避難させるまでになった。
 
[[文明_(日本)|文明]]16年([[1484年]])、薩摩守護の島津忠昌は分家である[[相州家]]の[[島津友久]]・[[薩州家]]の[[島津国久]]ら近い島津一族を率いて兇徒である伊作氏退治に出陣する。末吉で敗れた伊作久逸は櫛間に退却、同年降伏し、伊作へ戻ることとなった。
 
伊作に戻った久逸だったが、[[明応]]3年([[1494年]])、嫡子の[[島津善久|伊作善久]]が下男により殺害されるという事件が起こった。久逸自身も島津氏[[薩州家]]の内紛に巻き込まれ、明応9年([[1500年]])に薩州家の[[島津忠興 (薩州家)|島津忠興]]に攻められ戦死した。享年60。
 
{{デフォルトソート:しまつ ひさやす}}