「新版大岡政談 (1928年の日活の映画)」の版間の差分

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現在、フィルムは失われ断片しか残されていない。
 
== エピソード ==
[[ファイル:Kyoto Nanzenji01s5s4272.jpg|150px|thumb|撮影に使われた[[南禅寺]]三門]]
無声映画時代、京都の映画界は[[南禅寺]]をロケ地として多用した。本作も、この南禅寺で撮影されている。大正末から昭和の初めごろは各社の撮影班が毎日のように押しかけ、二班、三班が各所で撮影することもあったという。
 
[[稲垣浩]]がこの南禅寺にロケに出かけたところ、大先輩に当たる[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督がちょうど本作の大ローションの最中だった。このため稲垣は挨拶だけして尻尾を巻いて引き揚げたが、翌日新聞に、伊藤監督が南禅寺の山門(三門)で撮影中、大扉が外れて負傷したとの記事を見て驚いたという。さいわい重傷ではなかったので、責任感の強い伊藤監督は松葉杖をつきながら悲壮なメガホンをとって撮影を続け、これを完成した。
 
当時映画界では、(南禅寺の山門を巣窟にしたという)[[石川五右衛門]]の伝説よりもこの事件が有名になって、南禅寺にロケする者は必ず'''「伊藤監督遭難の地」'''と語り伝えた。戦後になっても稲垣は、「天災は忘れたころに来る」という注意の意味で、三十何年前のこの話をロケ隊の者たちに話したという<ref>『日本映画の若き日々』([[稲垣浩]]、毎日新聞社刊)</ref>。
 
== キャスト ==
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==再現企画==
伊藤大輔監督と主演・大河内傳次郎の生誕110周年である[[2008年]]の[[10月27日]]([[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界視聴覚遺産の日]])に、[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]のユネスコ企画イベントとして、[[活動弁士]]の[[澤登翠]]らによる「[[ロスト・フィルム・プロジェクト]]」により、残された写真と活弁と伴奏により本作を再現する試みが行われた。
 
==脚注==
<references />
 
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