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[[File:Geisha Teruha in the Meiji period.jpg|thumb|芸妓、照葉時代の智照]]
'''高岡智照'''(たかおかちしょう、1896年4月22日-1995年10月22日)は、[[新橋]]の人気[[芸妓]]から、のちに[[京都]]で[[尼僧]]になった女性。その美貌と、情夫への義理立てに小指をつめたことで有名になった。[[絵葉書]]のモデルとしても人気を集め、海外でも"Nine Finger Geisha(9本指の芸者)"として知られる。[[瀬戸内寂聴]]の小説『女徳』のモデルでもある。芸名は千代葉、照葉。本名は高岡たつ子(辰子)。
 
== 千代葉時代(大阪)==
[[明治29年]]4月22日[[大阪市]]南区[[上本町]]に生まれる(奈良県の説も)。父親は大酒飲みの[[鍛冶]]職人だった。2歳のときに母親の小田つるが死亡(行方不明という説も)。祖母に可愛がられて育ったが、7歳のとき、[[奈良公園]]で掛け茶屋をやっていた叔母のところで茶汲みの手伝いを始める。父親に騙されて12歳で大阪[[南地]]の辻井お梅(5代目[[菊五郎]]の妾)のもとに売られた。<ref name=repo1>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/911937/11 『 女、女、女』 小野賢一郎著 (興成館, 1915)]</ref>
 
14歳のとき、250円で[[貸座敷]]「加賀屋」の養女になり、千代葉の名で店出し。その美貌からすぐに人気となり、[[大阪証券取引所]]の会長によって[[水揚げ]]される。15歳のとき、金持ちの遊び人として浮名を流していた東区北久宝寺町の小間物商、音峰と恋仲になり、[[別府温泉]]に駆け落ちするが、手鏡の中に忍ばせていた歌舞伎役者の写真を音峰が見て嫉妬し、仲違いする。音峰への真情を伝えるために、小指の先をカミソリで切り、切り落とした指先を音峰へ渡した。異説によると、[[関節炎]]の治療に別府温泉へ逗留していた音峰のところに来て[[心中]]を迫ったが、嫌がった音峰が逃げ出したため、音峰への思いの強さを示すために[[指つめ]]をして渡したとされる<ref name="repo1"/>。
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== 芸者から尼僧へ ==
[[大正8年]]、[[北浜]]の[[相場師]]で映画会社も経営していた小田末蔵と結婚。夫について渡米し、[[アメリカ]]各地を旅する。この間8か月ほど[[ニューヨーク]]郊外の女子学校の寮に住み、英語を学ぶ。このとき、ヒルデガルドという女性と[[レズ]]関係にあったと言われている<ref>[http://www.flickr.com/photos/24443965@N08/4472454374/in/set-72157623523290473 TERUHA and Her LESBIAN LOVE AFFAIR in the USA.... And the LITTLE GIRL Born to Her in FRANCE ]</ref>。帰国後、夫婦仲がうまくいかなくなり、2度の自殺未遂を起こしたのち離婚。アメリカに戻り、[[ロンドン]]へ行くが、知人であった[[早川雪洲]]のアドバイスで[[パリ]]に移る。この間にパリで子を生んだとされている。帰国後再び芸者として働く。[[1923年]](大正12年)には、小田照葉の名で[[中川紫郎]]監督映画『愛の扉』に主演している。医学博士と再婚するが、これも破綻し、大阪でバーを経営<ref name="repo2"/>。[[19291928年]]には騒人社書局より自伝『照葉懺悔』を出し[[1934年]]には中央公論社より『黒髪懺悔』以降も自らの体験を綴った本を出版。[[1935年]]、39歳のときに[[久米寺]]で得度し、智照を名乗る。寂れていた[[京都]]の[[祇王寺]]の庵主となり、復興させる。祇王寺は失恋した女性の心の拠り所として話題を集め、[[1963年]]には瀬戸内寂聴が智照をモデルに小説『女徳』を著した。幼くして親に騙されて身売りされ、10代で早くも死にたいと漏らしていた<ref name="repo2"/>少女は、明治、大正、昭和と生き抜き、平成7年の[[1995年]]に99歳で没した。
 
== 自著 ==
*『照葉懺悔』 騒人社書局 19291928
*『照葉始末書』万里閣書房 1929年
*『黒髪懺悔』 中央公論社 1934年
*『祗王寺日記』 講談社 1973年