「小諸城」の版間の差分

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== 歴史・沿革 ==
[[天文 (日本)|天文]]23年([[1554年]])に竣工し、[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]が入城したとされるが、誤りであることが指摘される<ref>黒田基樹「親族衆武田信豊の研究」</ref>。[[武田勝頼|勝頼]]期には御一門衆の[[下曾根浄喜]]が城代を務めており、天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際しては小諸城に逃れてきた信豊を浄喜が打ち取り首を[[織田信長]]に進上したが、浄喜も誅殺されたという
 
武田氏が滅んだ後は[[滝川一益]]、ついで[[北条氏]]が所領し、後に[[徳川氏]]に引き渡された。その後[[小田原征伐]]での功労が認められ5万石で[[大名]]に再び列せられた仙石秀久が[[天正]]18年([[1590年]])に入城した。秀久は[[関ヶ原の戦い]]では東軍についたが、その後も[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])に2代[[仙石忠政|忠政]]が[[上田城]]へ転封となるまで居城した。