「アルチーデ・デ・ガスペリ」の版間の差分

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1944年6月に[[ローマ]]が連合国軍に占領され[[ピエトロ・バドリオ]]が政権を退いたことにより、デ・ガスペリは当初は無任所大臣、その後外相に就任する。1945年12月、デ・ガスペリは[[イタリア共産党]]、[[イタリア社会党]]と連立を組んで首相に就任する。このとき共産党党首[[パルミーロ・トリアッティ]]が副首相に就く。デ・ガスペリは連合国による対イタリア講和条約の条件緩和を試み、また共産党は反対したが、マーシャル・プランによる財政・経済支援を確保した。
 
1946年6月に[[1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票|王政維持か共和政移行かを決める国民投票]]が行われ、共和政移行が54%をという占める結果となった。パリでの第二次世界大戦講和会議に出席するイタリア代表団の長として、デ・ガスペリは連合国からイタリアの主権を保障する譲歩を得た。1947年の[[パリ条約 (1947年)|パリ条約]]により、イタリア東部の国境地帯が[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]に割譲され、また[[トリエステ]]は[[トリエステ自由地域|自由地域]]としてイギリス・アメリカとユーゴスラビアとの間で分割されることになった。
 
デ・ガスペリの外交政策で最も特筆される成果は1946年9月のオーストリアとの間で結んだ[[グルーバー=デ・ガスペリ協定]]であり、同協定はデ・ガスペリの出身地である南チロルを自治地域とすることを定めたものである。
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=== 1948年の選挙 ===
[[1948年イタリア総選挙|1948年4月の総選挙]]は[[ソビエト連邦]]とアメリカとの間での冷戦という状況が大きな影響を与えるものとなった。ソビエトに影響を受けた1948年2月の[[チェコスロバキア]]での共産党によるクーデターののち、アメリカはソビエトの意図を警戒し、またイタリアでの総選挙で左派連合が勝利することになれば、ソビエトの支援を受けるイタリア共産党によりイタリアがソビエト連邦の影響下に引き込まれることになるということを恐れた。
 
選挙運動はイタリア史上類を見ないほどの論戦と熱狂を伴うものとなった。イタリアのカトリック教会は共産系候補に投票しないよう強く働きかけた。またキリスト教民主主義の[[プロパガンダ]]では「共産主義国では子どもが親を刑務所に送る」「共産主義国では子どもは国家によって所有される」「共産主義国では国民が自分の子どもを食べる」と繰り広げたり、また左派が政権を取ればイタリアに災難が降りかかるといった論調を展開したりした<ref>{{Cite web|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,779791,00.html|title=Show of Force|date=1948-04-12|publisher=Time|language=English|accessdate=2009-02-14}}</ref><ref name="tim190448">{{Cite web|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,798374,00.html|title=How to Hang On|date=1948-04-19|publisher=Time|language=English|accessdate=2009-02-14}}</ref>。
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1952年、党はデ・ガスペリの政府と党における立場を圧倒的に支持していた。ところがこの支持はデ・ガスペリの凋落の始まりでもあった。党内で現れはじめた左派勢力はデ・ガスペリに対して批判を展開しだしたのである。デ・ガスペリが社会・経済改革に対する慎重な姿勢をとったこと、改革論議を抑圧していたこと、党よりも政府の利益を優先させたことが槍玉に挙げられた。
 
[[1953年イタリア総選挙|1953年の総選挙]]でキリスト教民主主義が過半数を獲得できず、デ・ガスペリは自らの政策を実現できる政権を構築することができなくなり、首相を退くことを余儀なくされた<ref>{{Cite web|url=http://www.time.com/time/printout/0,8816,936090,00.html|title=Cabinet Maker|date=1953-06-27|publisher=Time|language=English|accessdate=2009-02-14}}</ref>
<ref>{{Cite web|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,818642,00.html|title=De Gasperi's Fall|date=1953-08-10|publisher=Time|language=English|accessdate=2009-02-14}}</ref>。翌年には党首の座をも明け渡すことになった。