「アントニウス・ボードウィン」の版間の差分

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[[1820年]]にオランダ[[ドルトレヒト]]に[[フランス系]]の家庭に生まれる<ref>ボードウィン『オランダ領事の幕末維新』([[フォス美弥子]]訳、[[新人物往来社]])によると、アントニウスの先祖は母国[[フランス]]の迫害を受けて、オランダの[[マーストリヒト]]に移住した[[ユグノー派]]([[カルヴァン派]])の末裔だと記されている。</ref>。[[ユトレヒト]]陸軍軍医学校と[[ユトレヒト大学]]医学部で[[医学]]を学び、卒業後はオランダ陸軍に入隊し、[[1845年]]からはユトレヒト陸軍軍医学校で教官を務める。
 
[[1862年]]、先に[[日本]]の[[出島]]に滞在していた弟の働きかけにより、[[江戸幕府]]の招きを受けて来日。[[ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト|ポンペ]]の後任として[[長崎養生所]]の教頭となる。その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広め、また養生所の基礎科学教育の充実に努める。そして幕府に医学・理学学校の建設を呼びかけ、[[1866年]]に教頭を離任、その準備のために[[緒方惟準]]ら留学生を伴って帰国したが、この話は[[明治維新]]で白紙に戻った為、[[1867年]]に再来日し、明治政府に同内容の呼びかけを行う。[[大阪仮学校]]、[[大阪陸軍病院]]に務め、[[大学校 (1869年)#大学東校|大学東校]]で教鞭をとった。[[1870年]]に帰国し、[[1873年]]には[[オランダ陸軍]]に復帰。[[1884年]]に退役し、オランダの[[デン・ハーグ|ハーグ]]で[[1885年]]に病没した。
 
== 活動 ==