「宇和島藩」の版間の差分

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== 支藩 ==
=== 伊予吉田藩 ===
'''伊予吉田藩'''(いよよしだはん)は、[[明暦]]3年([[1657(1657]])7月21日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・[[伊達宗純|宗純]]が宗藩より3万石を分知されて立藩した。[[三河国]]の[[三河吉田藩|吉田藩]]と区別するため伊予吉田藩と呼ばれた。藩庁は愛媛県[[宇和島市]]吉田町立間尻御殿内(旧[[北宇和郡]][[吉田町 (愛媛県)|吉田町]])に[[伊予吉田陣屋]]がおかれた。
 
この3万石分知の経緯については諸説ある。秀宗は宗純を寵愛しており、父・[[伊達政宗|政宗]]が死去するまで支出していた隠居料3万石を宗純のために分知した、と一般に言われている。一方で、2人ふたりの兄が相次いで早逝するなかで世継ぎとなった三男・[[伊達宗利|宗利]]を妬んだ宗純が、[[仙台藩]]の[[伊達宗勝]](政宗の10男で秀宗の異母弟)と共謀し、秀宗の遺言書を偽造した、とも言われている。当時の秀宗の病状は悪く、筆を取るのもままならない状態であったとして、宗利は不審の念を呈する書簡を仙台藩第2代藩主・[[伊達忠宗]]に送っている。なお、宗勝は後の[[伊達騒動]]の首謀者として断罪されていることも一考に価するだろう。結局、[[彦根藩]]主・[[井伊直孝]]の仲裁により3万石分知は果たされたが、吉田伊達家と宇和島宗家は領地の帰属を巡って激しく対立した。
 
両藩の確執は、元[[土佐藩]]浪人の身から吉田藩の家臣となり専横を奮った山田仲左衛門を巡る一件(山田騒動)に仙台伊達家の指示で宇和島藩が介入するまで続いた。以後、吉田藩に対する宇和島藩の発言権は大きくなった。第7代藩主・[[伊達宗翰|宗翰]]は宇和島藩主・[[伊達村寿|村寿]]の子、第8代藩主・[[伊達宗孝|宗孝]]も宇和島藩主・[[伊達宗城|宗城]]の実弟で、いずれも養子として藩主となっていることから、この事件を機に宇和島藩に従属し、支藩的扱いを受けていたと考えてよい。
 
[[享保の大飢饉]]では大被害を受け、2万7000石の損失があった。さらに幕府の公役負担などにより財政は苦しくなる。このため、吉田藩は重税を強いて、さらに製紙を専売化するなどしたが、このために[[寛政]]5年([[1793(1793]])2月に吉田藩最大の一揆である武左衛門一揆が起こり、藩は百姓の要求を受け入れて製紙の専売を取りやめた。寛政6年([[1794(1794]])11月13日には藩校・時観堂を創設し、森退堂を登用した。
 
[[幕末]]は第8代藩主・[[伊達宗孝|宗孝]]が実兄・[[伊達宗城|宗城]]と不仲だっめにことから[[佐幕]]派として行動し、兄の仲介で新政府より許されている。
 
[[明治4年]]([[1871(1871]])[[7)7月14日 (旧暦)|7月14日]]、廃藩置県の断行により、旧伊予吉田藩領を管下とする'''吉田県'''を設置(草高3万石、現石1万4730石<!--。三河国吉田藩の方は混同を避け豊橋藩に改称した後、豊橋県となった--><!-- 脱線蛇足(かえって混乱) -->)。同年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]、第1次府県統合<!--、いわゆる3府72県制の実施--><!-- 蛇足 -->により吉田県を廃止。と同時に旧宇和島県、旧[[大洲藩|大洲県]]、旧[[大洲藩|新谷県]]と合併し、新たなる[[神山県 (日本)|宇和島県]]を設置(本庁・宇和島、支庁・大洲)。その後、[[神山県_(日本)|神山県]]を経て愛媛県に編入された。
 
==== 吉田藩領 ====
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*:'''吉野 蕨生 奥野川'''(以上、旧吉野生村) '''目黒'''(旧松丸町)
 
[[寛文]]2年([[1664(1664]])に宇和島領の「北灘、蒋渕、下波、南君、上泊、川名津、喜木津、広早」と吉田領の「次郎丸のうち中之川、延野々、永野市、近永、影平(朝立浦の枝)」が交換された。
 
=== 歴代藩主 ===