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}}</ref>。父のミールザー・アリーは、[[ウラマー]]であり、イランでも有数の農業主でもあった。
 
1948年、生家を離れ、[[シーア派]]の聖地[[ゴム (イラン)|ゴム]]市に赴き、[[ルーホッラー・ホメイニー]]に師事した。
 
1950年代初め、ラフサンジャーニーは、 シャー体制との闘争に初めて入った。当時、彼は、国家の独立の強化を主張したモサッデグ博士の熱狂的支持者だった。クーデタによりモサッデグ政権が倒れ、ラフサンジャーニーは当局のブラック・リストに入る。
 
1960年代、[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]体制は、経済状態が悪化し、政治的危機が増大する中、「白色革命」と呼ばれる社会・経済改革の実施に着手した。改革の中には[[ウラマー]]の権限を侵すものもあり、ホメイニーはゴムで蜂起したが鎮圧された。蜂起の組織者は国外追放され、ラフサンジャーニーを含むホメイニーの弟子達は投獄された。ラフサンジャーニーはその後もさらに4回逮捕されている。
 
この時期、19世紀に西洋的近代化を唱えた[[ガージャール朝]]の政治家[[アミーレ・キャビール]]の思想に共鳴し、彼の伝記を書いている。また、革命までの数年間、欧米や日本を訪問した。[[広島市]]の[[平和記念資料館]]のノートにラフサンジャーニーと思われる記名がある。旅行中、[[ヤーセル・アラファート]]とも会見したことが当局に明らかになり、再び投獄された。
 
== イラン・イスラム革命 ==
1979年の[[イラン・イスラム革命]]後、ラフサンジャーニーは内務相に任命された。この時期、イスラム革命指導者に対するテロ行為が頻繁に起きたが、彼は空手で暴漢を撃退したという噂が広まり、人気の上昇につながった。一連のテロ事件により当時の大統領[[アリー・ハーメネイー]]が負傷し、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーのテヘラン金曜礼拝導師の座を占めることとなった。テヘラン金曜礼拝での説教は大統領職にあるものがウラマーである場合、大統領が行うものであり、政府公式声明の意味を持った。このため[[テヘラン大学]]で講義され、新聞紙に必ず掲載され、テレビおよびラジオで放送される。特にこの職務によりラフサンジャーニーは、ホメイニーに次ぐ立場を獲得することができた。
 
1980年、ラフサンジャーニーは、マジュリス(議会)議長の席を占めた。彼は、議会をホメイニーの側近グループに次ぐ権力機関に変え、内閣の組閣と首相の任命の際の決定権を収めることができた。
 
1988年5月に行われた第3期議会選挙において、ラフサンジャーニーは、議会に支持者を大量に送り込み、立場を強化した。弟のマフムードは外務省近東部長となり、モハンマドは代議員に当選、テレビ・ラジオ放送局長になった。また、従兄弟のホセイン・ハーシェミーは、乾燥果物生産者・輸出業者協会を率いた。さらにもう1人の親戚は、代議員となり、内務省でポストを得た。
 
== イラン・イラク戦争 ==
イラクとの開戦時、ラフサンジャーニーは、国防最高会議におけるホメイニーの私的代理人であり、のちに軍最高司令官となった。
 
1988年2月、公益判別会議設置の発議者となった。この会議には、大統領アリー・ハーメネイー、最高裁判所所長アルダビーリー、ホメイニーの息子アフマドら、穏健派かつラフサンジャーニーの支持者が入った。新組織は、国家安全保障問題の最高顧問の役割を担った。
 
1988年7月18日、ホメイニーは、イラクとの停戦を受け入れたが、これにはラフサンジャーニーの説得が大きく作用したと言われる。彼は、正規軍への平衡力として[[イスラム革命防衛隊]]を組織したが、同時に彼らを押さえ込むこともできた。
 
== 大統領 ==