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{{出典の明記|date=2009年6月}}
[[Image:Tiger II mit Porscheturm.jpg|thumb|350px|[[ティーガーII]]]]
'''重戦車'''(じゅうせんしゃ)とは、[[第二次世界大戦]]前から[[冷戦]]までの時期に作られた[[戦車]]のうち、大きな車体、重[[装甲]]、大型砲搭載など様々な条件により同時期の自軍戦車の中で相対的に重量の大きい戦車を指す。

特に第二次世界大戦中は大砲の威力と装甲強化のシーソーゲームが激しく、開戦時には40t程度もあれば立派な重戦車といえたが、1944年には70t近くの重戦車が実戦で使用され、188tの超重戦車まで試作されるに至った。
 
== 戦間期の重戦車 ==
[[戦間期]]に戦車の機動力は飛躍的に向上し、回転[[砲塔]]の登場で攻撃にも柔軟性が増した。[[第一次世界大戦]]時のものとはまったく別の物に進化したが、向上した性能をどのように組み合わせたものが優れた戦車なのかについては、各国とも模索の途上にあった。戦間期の主要国は、いくつか異なる型を並行して開発していた。[[ソビエト連邦|ソ連]]と[[フランス]]は、そのうち大型で強力なものを、重戦車と位置づけた。
 
[[第二次世界大戦]]後の教訓では、大型で強力な戦車とは、厚い装甲と強力な砲の組み合わせを意味する。戦車戦を生き延び、敵戦車を撃破する能力である。しかし戦間期、特に1920年代には、敵戦車の脅威が総じて低く見積もられ、移動トーチカとして歩兵を掃討する役割が求められた。このころの重戦車の主流は、低速と重装甲を組み合わせたものであった。攻撃力、特に装甲貫徹力は、戦中の戦車と比べると軽視された。模索された重戦車の中では、装甲を薄くするかわりに複数の砲を持つ[[多砲塔戦車]]が試されたこともあった。
 
フランスとソ連は、低速・重装甲の重戦車を保有した。[[イギリス]]は[[歩兵戦車]]の名で同様の戦車を作った。[[イタリア王国|イタリア]]はその地形から軽快な戦車を好み、重戦車を開発しなかった。[[ヴェルサイユ条約]]で戦車保有を禁じられた[[ナチス・ドイツ]]は、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]政権下で戦車の生産と配備を急いだが、重戦車には手が回らなかった。
 
== 第二次世界大戦の重戦車 ==
フランスとソ連は、いずれも[[ドイツ国防|ドイツ軍]]の[[電撃戦]]で国土を席巻された。その防衛戦で、戦間期型の重戦車は攻撃力不足の欠点をさらけだした。搭載砲の射程距離が短かった大戦初期には、機動力の差が決定的であった。個々ばらばらに戦場に登場した重戦車は、軽快なドイツ戦車に超接近戦にもちこまれ、不利な相対位置で撃たれることになった。また、[[北アフリカ戦線]]の開けた砂漠では、イギリスの歩兵戦車は対戦車砲に有効な榴弾砲を持たないために、自車の射程範囲外からドイツの[[8.8 cm FlaK 18/36/37|88mm高射]]に撃破された。
 
しかし1941年の[[独ソ戦]]初期には重戦車が威力を発揮した。ソ連の[[KV-1]]重戦車は、当時としては常識外れの厚い装甲で[[ドイツ国防]]の戦車と[[対戦車砲]]の攻撃を弾き、怪物と呼ばれた。もっとも、低速で故障が多かったため、激しく動く戦線から取り残されて個別に撃破されたり放棄されたりすることが多かった。この戦車と[[T-34]][[中戦車]]は1941年当時ごく少数しかなかったが、ドイツ軍の標準的な対戦車用の装備では歯が立たず、戦場に投入されるたびに、一時的であってもドイツ軍の進撃を食い止め、鈍らせる働きをした。それに比べると、軽装甲のソ連戦車は数が多少あっても簡単に撃破された。
フランスとソ連は、いずれもドイツ軍の[[電撃戦]]で国土を席巻された。その防衛戦で、戦間期型の重戦車は攻撃力不足の欠点をさらけだした。搭載砲の射程距離が短かった大戦初期には、機動力の差が決定的であった。個々ばらばらに戦場に登場した重戦車は、軽快なドイツ戦車に超接近戦にもちこまれ、不利な相対位置で撃たれることになった。また、[[北アフリカ戦線]]の開けた砂漠では、イギリスの歩兵戦車は対戦車砲に有効な榴弾砲を持たないために、自車の射程範囲外からドイツの88mm砲に撃破された。
 
この経験から独ソ両軍は、バランスのとれた戦車の量産と並行して、少数の重戦車の生産に取り組んだ。大戦中期に登場したドイツ軍の[[VI号戦車]]([[ティーガーI]])は、ドイツ装甲部隊の攻防の正面に立って活躍した。対抗したソ連軍は[[IS-2]]重戦車を投入した。ついでドイツ軍が VI号B型戦車([[ティーガーII]])を投入し、ソ連軍がIS-3重戦車を開発したところで戦争は終わった。ドイツでは[[マウス (戦車)|マウス]]や[[E-100]]などの超重戦車も計画・開発されていたが、重量や信頼性の点でおよそ実戦運用に耐えられる様な代物では無かった。
しかし1941年の[[独ソ戦]]初期には重戦車が威力を発揮した。ソ連の[[KV-1]]重戦車は、当時としては常識外れの厚い装甲で[[ドイツ国防軍]]の戦車と[[対戦車砲]]の攻撃を弾き、怪物と呼ばれた。もっとも、低速で故障が多かったため、激しく動く戦線から取り残されて個別に撃破されたり放棄されたりすることが多かった。この戦車と[[T-34]][[中戦車]]は1941年当時ごく少数しかなかったが、ドイツ軍の標準的な対戦車用の装備では歯が立たず、戦場に投入されるたびに、一時的であってもドイツ軍の進撃を食い止め、鈍らせる働きをした。それに比べると、軽装甲のソ連戦車は数が多少あっても簡単に撃破された。
 
[[東部戦線]]で戦車が巨大進化を遂げる一方で、[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]では航空機が戦場を支配した。ドイツ重戦車が目覚しい戦果を挙げた場面もあったが、いかなる戦車も航空攻撃には無力であった。[[アメリカ陸軍]][[イギリス陸軍]]は、ドイツ重戦車に対抗できる戦車の開発に取り組んだが、その産物が実戦に登場した頃には敵にすべきドイツ戦車がほとんどなくなっていた。
この経験から独ソ両軍は、バランスのとれた戦車の量産と並行して、少数の重戦車の生産に取り組んだ。大戦中期に登場したドイツ軍の[[VI号戦車]]([[ティーガーI]])は、ドイツ装甲部隊の攻防の正面に立って活躍した。対抗したソ連軍は[[IS-2]]重戦車を投入した。ついでドイツ軍が VI号B型戦車([[ティーガーII]])を投入し、ソ連軍がIS-3重戦車を開発したところで戦争は終わった。ドイツでは[[マウス (戦車)|マウス]]や[[E-100]]などの超重戦車も計画・開発されていたが、重量や信頼性の点でおよそ実戦運用に耐えられる様な代物では無かった。
 
東部戦線で戦車が巨大進化を遂げる一方で、西部戦線では航空機が戦場を支配した。ドイツ重戦車が目覚しい戦果を挙げた場面もあったが、いかなる戦車も航空攻撃には無力であった。アメリカとイギリスの陸軍は、ドイツ重戦車に対抗できる戦車の開発に取り組んだが、その産物が実戦に登場した頃には敵にすべきドイツ戦車がほとんどなくなっていた。
 
== 第二次世界大戦後の重戦車 ==
第二次世界大戦後、[[ベルリン]]で行われた戦勝パレードにおいてベールを脱いだソ連の [[IS-3]]に対抗する形で米英両軍アメリカとイギリスはそれぞれ[[M103重戦車|M103]]と[[コンカラー (戦車)|コンカラー]]の開発を進めたが、そのペースは戦時中と比べると遅くなった。本国での使用が考えられない米英アメリカとイギリスにとって、重戦車は攻撃力と比べて輸送に関する制約が大きく、大規模な運用は困難であり有効な戦力とは考えにくかった。さらに最大の利点であった重装甲が火砲と[[対戦車ミサイル]]の急速な発展により優位を失い、口径120mmの主砲による攻撃力も[[ロイヤル・オードナンス L7|L7 105mm戦車砲]]の登場とそれらを装備した[[センチュリオン (戦車)|センチュリオン戦車]]や[[M60パットン]]の登場によって存在意義を失い、[[中戦車]]の進化と合流する形で重戦車という種別は姿を消し、現代まで続く[[主力戦車]]が生まれた。
 
ソ連軍は戦後しばらく[[IS-3]]及び[[T-10 (戦車)|T-10]]と、[[T-54]]/[[T-55|55]]や[[T-62]]などの中戦車を並行して開発、配備した。その後しだいに対[[西側諸国]]の技術的優位を失う中で、1970年代に[[T-64]]や[[T-72]]などの主力戦車に一本化した。
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== 主な重戦車 ==
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; {{DEU1935USA}}
* [[ティM26パガーIシング]]
* [[M103重戦車|M103ファイティングモンスタガーII]]
 
* [[マウス (戦車)|マウス]]
; {{UK}}
* [[コンカラー (戦車)|コンカラー]]
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; {{SSR}}
* [[KV-1]]
* [[KV-2]]
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* [[IS-3]]
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* [[M26パティシングガーI]]
* [[M103重戦車|M103ファイティングモンスタガーII]]
* [[マウス (戦車)|マウス]]
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; {{UK}}
; {{JPN1889}}
* [[コンカラー (戦車)|コンカラー]]
|
; {{JPN1889}}
* [[九五式重戦車]]
* [[オイ車]]