「日活ロマンポルノ」の版間の差分

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興行は通常は3本立て2週間興行の体制を基本とし<ref name="nikkatsu100">[http://www.nikkatsu.com/100th/rp100 「生きつづけるロマンポルノ」公式HP トップページ | 日活100周年 | NIKKATSU 100th Anniversary]</ref>、2本が自社製作、1本が買付け作品であったが、正月映画およびお盆映画は大作2本立てによるロングラン興行が行われた。上映館は旧ダイニチ映配の崩壊後に日活系として残った旧来の「日活系」が主であり<ref>ダイニチ映配発足後には、配給網の統合に伴い、その地区にあった[[大映]]系と日活系のどちらか一方に封切館が集約され、あぶれた方が旧作やピンク映画の上映で食いつなぐケースが見られた。静岡市にあった「静岡日活」のように、一旦は「静岡日活」の名称のままでOPチェーン([[大蔵映画]])傘下に入りピンク映画封切館に転身しながら、「並木座」と名を改めた後ダイニチ映配の崩壊とロマンポルノ発足をきっかけに日活系へ復帰したケースもある。<!-- ←当時の「静岡新聞」掲載の同館広告より。「OP(チェーン)封切館」の表示あり--></ref>、これには日活の直営館だけでなく、傍系の[[太陽企業]]の経営による「日活系」映画館も含まれた。なお日活では、ロマンポルノの発足を機に、成人映画の上映に適した「ミニ劇場」の新設を全国で推進し始めた<ref>『映画年鑑 1973年版』 時事映画通信社、110頁</ref>。
 
しかし、ロマンポルノには創作上のメリットもあった。予算も限られ短納期の量産体制という厳しい環境ではあったが、後にある[[映画監督]]が、「ロマンポルノでは裸さえ出てくればどんなストーリーや演出でも何も言われず自由に制作できた」と語ったように、「10分に1回絡みのシーンを作る」「上映時間は70分程度」「[[モザイク処理|モザイク]]・ボカシは入らない様に対処する<ref>現代のアダルトビデオならモザイクやボカシで済ませてしまうシチュエーションでも、[[カーテン]]や[[机]]などの小道具の配置や[[照明]]効果、カメラワークなど、映像側の創意工夫で巧みに処理することが求められた。</ref> 」<ref name="nikkatsu100" />など所定のフォーマットだけ確実に抑えておけば、あとは自由な作品作りを任された<ref name="nikkatsu100" />。キャリアの浅い監督や脚本・演出の担当者にとっては自身の作家性を遺憾なく発揮できる稀少な場であり、結果論ではあるが、日活にとっても斜陽期の邦画界の中にあって崩壊してゆく[[スタジオシステム]]を維持し続け、映画会社として若手クリエイターの実践的な育成を手がけるための重要な場となった(とは言え、[[黒沢清]]のように、あまりにも無茶をして、配給を断られたという例もある)<ref>なお、この映画会社が若手クリエイターに作品創りを事実上一任するという手法は、後年、ポルノ映画・ピンク映画の衰退と共にサブカルチャーの分野に台頭してきた[[アダルトゲーム]]業界において、[[パートナーブランド]]や[[ホビボックス]]などのゲームソフトの元卸を手掛ける企業・販社が、小規模な開発チームに開発資金を供給して自社の傘下に入ることを条件に資金を供給し、ゲームソフトの実制作を手掛けさせるという形で少なからず似たような構図が見られている。</ref>。
 
また量産体制の維持の必要からも若手映画人の育成は進められた<ref name="nikkatsu100" />。1960年代後半から1980年代前半に掛けての若手映画人で、1990年代以降の日本映画界を支えた人物には、初期のキャリアとしてロマンポルノ作品が含まれている人物は別段珍しくもない。たとえば、ロマンポルノ映画ながら強い作家性で高い評価を得る作品を制作した監督には[[神代辰巳]]、[[曽根中生|曾根中生]]、[[田中登]]などがおり、ロマンポルノから監督としての主要なキャリアを出発させた人物には[[石井隆]]、[[和泉聖治]]、[[金子修介]]、[[崔洋一]]、[[周防正行]]、[[相米慎二]]、[[滝田洋二郎]]、[[中原俊]]、[[那須博之]]、[[根岸吉太郎]]、[[森田芳光]]などがいる(ピンク映画や自主映画出身でロマンポルノに招かれた者も含む)<ref name="nikkatsu100" />。