「アルブレヒト・アルトドルファー」の版間の差分

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生年は未詳だが、1480年頃の生まれで、生地はドイツ東南部の[[レーゲンスブルク]]であると推定される。父ウルリヒも画家で、主に写本挿絵を手がけていた。幼少期、修業期のことはあまり明らかでないが、現存する作品中に[[羊皮紙]]に描かれたものが複数あることやその作風から、アルブレヒトも写本挿絵画家として出発したのではないかと考えられている。
 
アルトドルファーは1491年、家族とともに一旦レーゲンスブルクを離れ、北方60キロの[[アンベルク]]に移住したが、後に再びレーゲンスブルクに戻っている。彼は、1505年には生地レーゲンスブルクにてマイスター(親方)として登録されており、この頃(20歳代半ば)には芸術家として独り立ちしていた。1515年頃には、[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]](在位:1493年 - 1519年)が作らせた『マクシミリアン祈祷書』という大規模な写本の制作に[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]らとともに参加している。
 
アルトドルファーは1519年よりレーゲンスブルク市の参事会員などの要職につき、1526年には同市の建築家に任命されている。さらに1528年にはレーゲンスブルク市長への就任を要請されたが、制作が忙しいからという理由で固辞している。アルトドルファーが当時制作していたのは、膨大な数の人物を圧倒的な細部描写で描いた『[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の戦い』で、[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ヴィルヘルム4世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム4世]](在位:1508年 - 1550年)のために制作した歴史画である。