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'''ヨーゼフ・ハシッド'''('''Josef Hassid'''、ポーランド語: Józef Chasyd, [[1923年]][[12月28日]] - [[1950年]][[11月7日]])は[[ポーランド]]出身の[[イギリス]]の[[ヴァイオリニスト]]。わずか2年の活動の後に生涯を閉じた悲劇の天才ヴァイオリニストとして知られる。
 
[[ポーランド]]の[[スヴァウキ]]に生まれる。幼い頃に母を亡くし、父に育てられる。10歳で[[ワルシャワ]]の[[ショパン音楽院]]に入学。[[1935年]]、11歳にしてワルシャワの[[ヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクール|ヘンリク・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール]]で名誉ディプロマ受賞。[[フリッツ・クライスラー]]からは、「世界的なヴァイオリンの逸材は100年に一度生まれるが、ヨーゼフ・ハシッドは200年に一度の逸材である」とまで絶賛された。
 
[[1938年]]、[[第二次世界大戦]]の戦禍を避けて父と共に[[ロンドン]]へ移住し、[[カール・フレッシュ]]に師事して録音を残す。[[1939年]]にはイギリスでデビューして大成功をおさめ、初の録音を行う。そして翌1940年には興行主ハロルド・ホルトと契約を結ぶ。しかし同じフレッシュ門下の令嬢との失恋が元で1941年3月の演奏会を最後に[[統合失調症]]を発し、[[ノーサンプトン]]の聖アンドリューズ病院に収容されて[[インシュリン・ショック療法]]などを受ける。一時は症状が改善して翌[[1942年]]には演奏活動を再開するが、同年11月に病状が悪化して[[エプソム]]のロンググローブ病院に強制入院させられ、[[1950年]][[10月20日]]に[[ロボトミー]]を受けた18日後に後遺症が元で死去。26歳の若さだった
 
9つ(実際には8曲)の小品の名録音を遺した。
 
== 使用した楽器 ==
クライスラーから貸与された[[ジャン=バティスト・ヴイヨーム]]の楽器を使用していた。
 
== 残された録音 ==
* [[エドワード・エルガー]]:「気まぐれ女 La Capricieuse」 Op.17 ([[ピアノ]]:Ivor Newton) - [[1939年]][[1月9日]]
* 同上 (ピアノ:[[ジェラルド・ムーア]]) - [[1940年]][[6月12日]]
* [[ピョートル・チャイコフスキー]]:「懐かしい土地の思い出」より『メロディー Mélodie』Op.42-3 - [[1940年]][[6月12日]]
* [[パブロ・デ・サラサーテ]]:「スペイン舞曲集」 第6番『[[サパテアード]]』 Op.23-2 - [[1940年]][[6月12日]]
* 同上:「スペイン舞曲集」 第5番『Playera』 Op.23-1 - [[1940年]][[6月28日]]
* [[フリッツ・クライスラー]]:[[ウィーン奇想曲]] Op.2 - [[1940年]][[11月29日]]
* [[ジョーゼフ・アクロン]]:「ヘブライのメロディー」 - [[1940年]][[11月29日]]
* [[アントニン・ドヴォルザーク]](クライスラー編曲):[[ユモレスク]] Op.101-7 - [[1940年]][[11月29日]]
* [[ジュール・マスネ]]:[[歌劇]]「[[タイス]]」より『瞑想曲』 - [[1940年]][[11月29日]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www.toramoku.net/hassid ヨーゼフ・ハシッド(Josef HASSID)]
 
{{デフォルトソート:はしつと よせふ}}
[[Category:ポーランドのヴァイオリニスト]]
[[Category:イギリスのヴァイオリニスト]]
[[Category:ポーランド出身の人物]]
[[Category:1923年生]]
[[Category:1950年没]]