「山田かまち」の版間の差分

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== 生涯 ==
幼少より絵画の才能を発揮する。小学校3年生のとき、[[東京芸学]]出身の竹内俊雄(後に新島学園高校の美術科非常勤講師)がクラスの担任になり、冬休みの宿題で動物の絵(約30枚)を1時間あまりで書き上げ、その作品は同氏竹内よって保管され、貴重な作品として「[[山田かまち水彩デッサン美術館]]」に残された。
 
中学3年生の頃から[[ビートルズ]]などの[[ロック (音楽)|ロック]]に傾倒。同級生であり後に[[ミュージシャン]]として活躍する[[氷室京介]]とバンドを組んだこともあった。
 
<!--(嫌気が指していたのかは疑問です。医学部受験を目指していた彼は《東大文Ⅲ合格を目指す!という文章を残している》、数学の成績を上げるために浪人したとも取れます。)[[高校受験]]に嫌気が差し、-->16歳の1年を[[高校浪人|浪人]]し、前橋市の英数学館に通う(当時の群馬県では、[[群馬県立高崎高等学校|高崎高校]]・[[群馬県立高崎女子高等学校|高崎女子]]や[[群馬県立前橋高等学校|前橋高校]]・[[群馬県立前橋女子高等学校|前橋女子]]といった難関県立高校を目指して中学浪人をする者は珍しくなかった)。
 
1977年、群馬県立高崎高等学校に入学。友人数人と、学園祭で映画を作成し出演する。
 
同高校1年生の17歳の8月、自宅で[[エレクトリックギター|エレキギター]]を練習している最中に死。このエレキギターは17歳の誕生日にプレゼントとして贈られたものであった。死因は感電事故<ref>『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』(筑摩書房)「はじまり」より。</ref>。<!--(練習の最中に亡くなっている《「悩みはイバラのように~」より》のだから事故以外考えられません。)、自殺など諸説があるが遺族らの意向により公表されていない。没後、母親が出版した本には「改造したエレキギターの電源コードが原因の感電死」と記されており、一般にはこの説が流布しているが、この本自体はノンフィクションの人物伝として書かれたものではなく、様々な点で創作箇所があると指摘されている。-->
 
「かまち」の名前の由来は、[[終戦]]直後に両親が読んだ[[歴史小説]]の主人公の名前である。その歴史小説は、「鹿麻知(かまち)」という少年が、[[石器時代]]を舞台に活躍するというものであり、両親は「[[終戦]]直後であったので、この少年のように新しい時代を強く生きるように」という願いをこめた。また、「かまち」の[[平仮名|ひらがな]]表記の理由は、「かまち自身が自由に漢字をあてられるように」という意図がある。
 
== 死後 ==
* 死後、保管されていた詩を書き付けたノートやデッサン水彩画を、母親や恩師などが中心となり詩集や画集として出版、一躍注目を集める。
** 4回忌(81年)と13回忌(89年)に知人らに向けた小さな展覧会が開かれた。その頃はまだ無名の少年だったが、13回忌の展覧会で彼の作品に衝撃を受けた広瀬毅朗画廊によって、[[1992年]]に高崎市片岡町に「[[山田かまち水彩デッサン美術館]]」が設立され、小さな山田かまちブームが起きていた。その後、同年12月に『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』を刊行され、これをきっかけに広く世に知られるようになった。
* [[中学校]]認定の[[国語]][[教科書]]や[[高校]]認定の[[現代社会]]・[[美術]]・[[英語]]教科書に彼の詩や絵画が掲載されている。
 
* [[2004年]]には彼の人生が映画「[[かまち (映画)|かまち]]」として[[映画]]化された。監督:[[望月六郎 (映画監督)|望月六郎]]、主演:[[谷内伸也]]。
*[[中学校]]認定の[[国語]][[教科書]]や[[高校]]認定の[[現代社会]]・[[美術]]・[[英語]]教科書に彼の詩や絵画が掲載されている。
 
*[[2004年]]には彼の人生が映画「[[かまち (映画)|かまち]]」として[[映画]]化された。監督:[[望月六郎 (映画監督)|望月六郎]]、主演:[[谷内伸也]]。
 
== 著作 ==
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[[Category:1960年生]]
[[Category:1977年没]]
<!--「日本の画家・詩人」と定義しない以上[[Category:日本の画家]]及び[[Category:日本の詩人]]は不適切なカテゴリですので貼らないで下さい。-->