「トゥー・ヴァージンズ」の版間の差分

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レノンは[[1960年代]]中盤から[[前衛音楽]]に興味を抱き、自作の[[アルバム]]を制作する構想を持っていた。[[1966年]]にレノンは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[前衛芸術家]]として活動していたオノと[[ロンドン]]で出会い、翌年にはオノの個展に出資したり、オノを[[ビートルズ]]の[[レコーディング]]・[[セッション]]に招待したりするようになった。レノンが[[インド]]へ[[マハリシ・マヘシ・ヨギ]]の[[修行]]を受けに行っていた[[1968年]]2~4月には、2人は[[文通]]で密に連絡を取り合っていた。このようにして次第にオノへの思慕を深めていったレノンは、1968年[[5月19日]]夜、妻[[シンシア・パウエル|シンシア]]の旅行中にオノを自宅に招待し、翌日明け方にかけて、前衛音楽のアルバム制作に着手した。『トゥー・ヴァージンズ』はこのときに2人が完成させた最初のアルバムであり、その内容はレノンとオノが即興で出した音ばかりを集めた計12曲で成り立っている。なおレノンは、本作録音中にオノと初めて肉体的に結ばれたことを公言し、宣伝に利用していた。以後、オノはレノンと[[同棲]]生活を始め、常に行動を共にするようになった。
 
=== アルバムジャケット問題とリリース ===
このアルバムで最も有名なのはその内容ではなく、制作中の出来事に関連して、レノンとオノが全裸で写った[[ジャケット写真]]である。これは当時2人が同棲生活を送っていた、[[リンゴ・スター]]が所有していた[[アパート]]で撮影された。[[陰茎]]を露出したレノンと、[[乳房]]と[[陰毛]]を露出したオノが写ったこのジャケット([http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/4/48/TwoVCover.jpg 参照])は[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]だけでなく、全世界で大きな物議を醸した。彼が所属していたビートルズは1968年に[[アップル・レコード]]を設立し、以降数年間メンバーは、この[[レコードレーベル|レーベル]]からレコードを発売し続けている。しかし、アップル・レコードのディストリビュート先であったイギリスの[[EMI]]やアメリカの[[キャピトル・レコード]]は、ジャケット写真に大きな抵抗感を示してこのアルバム発売を拒否した。そのため、イギリスとアメリカでは別のレコード会社(英トラック、米テトラグラマトン)の配給でリリースされた。アメリカ盤は二人の顔のみ印刷された茶色のカバーに入れて出荷された。
 
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リンゴもこの件に関して「なあ、ジョン。君はいいと思ってやっているのかもしれないが、ちょっとは僕たちのことも考えてくれ。庇うのが大変なんだから」と忠告している。
 
[[1997年]]に[[ライコ・レコード]]から初めて[[コンパクトディスク|CD]]化され、日本では公式リリースから29年ぶりに[[ビデオアーツ・ミュージック]]から発売さる運びとなった<ref>ライコ・ディスク特有のケース全体を覆うオーバーカバーが付けられ、日本盤では同様のデザインのカードが付属している</ref>。このリイシューの際に英・米ステレオ盤LPで12曲に分かれていたセクションは、英モノラル盤LP同様「サイド・ワン」と「サイド・トゥー」と名づけられた2つのトラックに統合された。さらに、ボーナス・トラックとしてオノの自作曲「リメンバー・ラヴ」が追加収録されている。
 
==収録曲==