「クネイトラ県」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 31 件をウィキデータ上の (d:Q219690 に転記)
編集の要約なし
2行目:
[[Image:Qunaitra.jpg|thumb|right|180px|[[クネイトラ]]の街の廃墟]]
[[Image:Bareeqa V Golanhights.JPG|thumb|180px|[[クネイトラ]]近郊(シリア側)のバレーカ村(Bareeqa)]]
'''クネイトラ県'''(クネイトゥラ県、アル=クネイトゥラ県、Quneitra Governorate, Al Qunaytirah, [[アラビア語]]: مُحافظة القنيطرة, al-Qunaiṭira )は、[[シリア]]の14ある[[シリアの行政区画|県]]の一つ。シリア南西部の国境地帯に位置し、東は[[ダルアー県]]に、北は[[レバノン]]と[[ダマスカス郊外県]](リーフ・ディマシュク)に、西は[[イスラエル]]に、南は[[ヨルダン]]に接する。県都は[[クネイトラ]](アル=クネイトゥラ)。ただし県の大部分は、[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]と[[1973年]]の[[第四次中東戦争]]でイスラエルに占領・併合され、係争地・'''[[ゴラン高原]]'''となっている。面積は 685平方km<ref name = "Stats and maps">[http://www.citypopulation.de/Syria.html Syria - City Population - Cities, Towns & Provinces - Statistics & Map]</ref>とする資料や、1,710平方km<ref>[http://www.statoids.com/usy.html Syria Provinces]</ref>とする資料がある。人口は69,000人(2005年の推計<ref name = "Stats and maps"/>)。県都は[[クネイトラ]](アル=クネイトゥラ)
 
== 地理 ==
面積は 685平方km<ref name = "Stats and maps">[http://www.citypopulation.de/Syria.html Syria - City Population - Cities, Towns & Provinces - Statistics & Map]</ref>とする資料や、1,710平方km<ref>[http://www.statoids.com/usy.html Syria Provinces]</ref>とする資料がある。人口は69,000人(2005年の推計<ref name = "Stats and maps"/>)。
シリア南西部の国境地帯に位置し、東は[[ダルアー県]]に、北は[[レバノン]]と[[ダマスカス郊外県]](リーフ・ディマシュク)に、西は[[イスラエル]]に、南は[[ヨルダン]]に接する。
 
県内の地形の多くは[[溶岩流]]が形成した高原であり、肥沃な土壌であることから[[コムギ]]などの栽培が盛んだった。中世にはクネイトラを含むシリア地方は荒廃したが、近代に入りロシアなどから[[オスマン帝国]]に逃れてきたムスリムの入植が盛んになり多くの町や村が形成された。中東戦争で大部分がイスラエルに併合され、[[ドゥルーズ派]]の農村がいくつか残るほかはイスラエル人が建設した[[キブツ]]が戦争前の村の跡地に建っている。県都[[クネイトラ]]は第四次中東戦争後イスラエルからシリアに返還されたが、現在に至るまで廃墟となったままである
 
== 歴史 ==
[[1970年代]]、イスラエル副首相を務めた経験のある政治家・[[イーガル・アロン]]は[[ヨルダン川西岸地区]]の安定化を目指してヨルダンとの二国間交渉で国境を確定しようとした。[[アロン・プラン]]と呼ばれるこの計画では、西岸の大部分をイスラエル領とし、代わりにパレスチナ人密集地への[[イスラエル人入植地]]建設は避けて自治区を作るというもので、これに付随してイスラエル占領地のゴラン高原も含むシリアのクネイトラ県にドゥルーズ派国家(ジャバル・ドゥルーズ)を建国する案があった<ref>http://www.haaretz.com/hasen/spages/988828.html</ref>。アロン・プランは人口密集地へも入植地建設が行われたことで宙に浮いた。またアロン死後の[[1981年]]にはイスラエル国会で[[ゴラン高原法]]が通過した。この法律はイスラエルの法をゴラン高原地区にも適用するというもので、文面では併合という用語の使用は避けられたものの、事実上のゴラン高原併合とみなされる。
中世にはクネイトラを含むシリア地方は荒廃した。
 
近代に入りロシアなどから[[オスマン帝国]]に逃れてきたムスリムの入植が盛んになり多くの町や村が形成された。
 
中東戦争で大部分がイスラエルに併合され、[[ドゥルーズ派]]の農村がいくつか残るほかはイスラエル人が建設した[[キブツ]]が戦争前の村の跡地に建っている。県都[[クネイトラ]]は第四次中東戦争後イスラエルからシリアに返還されたが、現在に至るまで廃墟となったままである。
 
[[1970年代]]、イスラエル副首相を務めた経験のある政治家・[[イーガル・アロン]]は[[ヨルダン川西岸地区]]の安定化を目指してヨルダンとの二国間交渉で国境を確定しようとした。[[アロン・プラン]]と呼ばれるこの計画では、西岸の大部分をイスラエル領とし、代わりにパレスチナ人密集地への[[イスラエル人入植地]]建設は避けて自治区を作るというもので、これに付随してイスラエル占領地のゴラン高原も含むシリアのクネイトラ県にドゥルーズ派国家(ジャバル・ドゥルーズ)を建国する案があった<ref>http://www.haaretz.com/hasen/spages/988828.html</ref>。アロン・プランは人口密集地へも入植地建設が行われたことで宙に浮いた。またアロン死後の[[1981年]]にはイスラエル国会で[[ゴラン高原法]]が通過した。この法律はイスラエルの法をゴラン高原地区にも適用するというもので、文面では併合という用語の使用は避けられたものの、事実上のゴラン高原併合とみなされる
 
またアロン死後の[[1981年]]にはイスラエル国会で[[ゴラン高原法]]が通過した。この法律はイスラエルの法をゴラン高原地区にも適用するというもので、文面では併合という用語の使用は避けられたものの、事実上のゴラン高原併合とみなされる。
 
== 郡 ==