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{{Otheruses|中世の神学者|17世紀の外科医|ピエール・ダイイ_(外科医)}}
[[Image:Pierre d'Ailly.jpg|thumb|ピエール・ダイイ]]
'''ピエール・ダイイ'''
== 生涯 ==
ダイイは[[コンピエーニュ]]の繁盛していた肉屋の子として生まれた。1364年頃から[[パリ]]の[[コレージュ・ド・ナヴァル]]で学び、1381年に[[神学]]のmaîtreとなり、1384年には同コレージュの講師となった。彼は1389年には国王[[シャルル6世_(フランス王)|シャルル6世]]付きの礼拝堂牧師となり、同年に[[パリ大学]]総長に任命された。彼が教え子の中で特に目をかけていたのは、[[ジャン・ジェルソン]]である。ジェルソンは後年ダイイの友となり、パリ大学総長の座を引き継ぐことにもなる。
当時は[[教会大分裂]]期であった。ダイイはその中で[[アヴィニョン教皇庁|アヴィニョン]]の[[対立教皇]][[ベネディクトゥス13世_(対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]に受け入れられ、[[ル・ピュイ]]司祭(1395年)や[[カンブレー]]司祭(1397年)に任命された。
== 学説 ==
当時の歴史における
哲学・神学上の位置付けとしては、彼は[[14世紀]]の[[パリ大学]]における[[オッカム主義]]的[[唯名論]]の代表者の一人である。この分野における彼の作品で最も興味深いものは、[[ピエール・ロンバール]]の『サンタンス』への注釈である。彼はその中で、とりわけ彼の先行者である[[オッカムのウィリアム]]、[[ジャン・ド・ミルクール]]、[[リミニのグレゴリオ]]らに依拠しつつ、信仰上の教理を論理的な分析に従属させている。彼はその分析において、(無矛盾の原則にのみ規定される)神の絶対的権能と、(神が望む世界の秩序に一致する)命じられた権力とを改めて峻別している。そこには、少数の絶対的証明と、(常に絶対神の権能のあり得る干渉に従属する)条件付き証明とが存在する。
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他方で、師であった[[ニコル・オレーム]]や教え子であった[[ジェルソン]]とは異なり、ダイイは諸事件の推移に果たす[[星辰]]の影響に魅せられていた。彼は、[[占星術]]と歴史、あるいは占星術と神学との一致を示す為に、(天体の)大会合の理論に依拠した。彼の占星術に関する著作のいくつかの章句を解釈した結果として、ダイイが、[[マルティン・ルター]]の[[宗教改革]]や[[フランス革命]]を予言していたとする者もいる(彼の予言は、[[ピエール・チュレル]]、[[リシャール・ルーサ]]らに影響を及ぼした)。彼はまた、[[ユリウス暦]]の改革にも関心を示していた。
彼は、他にも書簡、説教集([[ラテン語]]のもの、[[フランス語]]のもの)、フランス語による詩集なども残している。なお、上記で書名を挙げた著書などは、
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[[Category:フランスの神学者]]
[[Category:フランスの枢機卿]]
[[Category:14世紀の学者]]
[[Category:15世紀の学者]]
[[Category:フランスの占星術師]]
[[Category:パリ大学の教員]]
[[Category:ヴァロワ朝の人物]]
[[Category:1351年生]]
[[Category:1420年没]]
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