「伊達宗遠」の版間の差分

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===系譜の疑問点===
伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。
 
行宗-宗遠の場合、[[1348年]]の[[奥州管領]][[吉良貞家]]の書状の中に
「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官[[伊達宗政|伊達修理亮宗政]]」とみえ、
また宗遠の初見は[[1342年]]の[[五辻顕尚]]の書状の中の伊達飛騨前司とある為、
宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている。
 
[[1377年]]に伊達宗政(修理亮)が[[留守持家]]と一揆を結んだとの史料(一揆契約の書状)もあり、
修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。
 
また、伊達行宗の子息には[[伊佐城]]主となった[[伊達行資|伊達宮内太郎行資]]([[伊佐岡氏]]祖)がおり、
行資こそが万寿丸では無いかとの説もある。
 
宗遠は「行宗の庶子」「行宗の弟」「有力な親族」の何れかである可能性が指摘されている。