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橄欖岩 (会話 | 投稿記録)
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[[山城国]]で生まれる。はじめ[[織田信長]]に仕え、父永徳とともに[[安土城]]の障壁画などを描く。その後、[[豊臣秀吉]]に仕えた。[[天正]]18年([[1590年]])に父永徳が没した後、山城国大原に知行100石を拝領、狩野派の指導者となる。天正20年([[1592年]])[[肥後国]][[名護屋城]]を制作。その後も豊臣家の画用を務め多忙であったようだ。[[慶長]]8年([[1603年]])京都の[[徳川秀忠]]邸([[二条城]])に大内裏図を作成している<ref>『[[言経卿記]]』</ref>。慶長11年([[1606年]])[[江戸幕府]]の命で[[江戸]]へ下り、江戸城殿舎に障壁画を描く<ref>『木挽町記』、[[木下延俊]] 『慶長日記』</ref>。しかし、慶長13年(1608年)帰京途中で[[桑名]]で客死してしまう。享年44、または48。家督は長男の[[狩野貞信]]が継いだ。
 
父永徳の豪壮な大画様式とは対照的な理知的で穏やかな作風は、当時の戦国武将たちの好みとは合わなかったらしく、「下手右京」と酷評を受け[[近世]]を通じて評価が低かった<ref>{{Cite news
|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130519/wlf13051907010001-n2.htm
|title=天才絵師一門同士の壮絶バトル
|work=産経ニュースWEST
|publisher=産経新聞社
|date=2013-05-19
|accessdate=2013-05-19
}}</ref>。しかし、祖父の[[狩野松栄]]や曾祖父[[狩野元信]]の画風や[[中世]]の[[大和絵]]を取り入れ、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木・金雲などを描き、特に[[花鳥画]]に優れる<ref>『[[本朝画史]]』</ref>。また、永徳時代には排斥の対象ですらあった[[長谷川派]]との親和を図り、新たな画題である[[風俗画]]に取り組むことで、永徳様式からの自立と新たな絵画領域の開拓を目指した。こうした光信の画業を継承する[[狩野長信]]や[[狩野興以]]、[[狩野甚之丞]]のような門人もおり、光信の画風は永徳様式から甥の探幽を中心とする江戸狩野様式への橋渡しする役割を果たしたといえる。
 
== 代表作 ==