「ロマン・ムスティスラーヴィチ」の版間の差分

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ロマンは公威にもとづく強い中央政権国家を目指していたため、現地の[[貴族]]の権利を縮め、自らの政権に異を唱える者を無情に成敗していたといわれている。一方、平民の間での人気を高めるために、ルーシ南部を苦しめた[[クマン人]]による来襲を止めた。[[1201年]]から[[1202年]]の役と1203年から[[1204年]]の役ではクマン人の長達を破り、従属させ、夥しいルーシ人の捕虜を解放させた。
 
晩年に舅のキエフ大公リューリク2世(後に姻戚関係を解消)と対立し、1201年に[[キエフ]]を奪った。しかし彼自身は大公にならず、従兄弟の[[イングヴァルド (キエフ大公)リ1世|イングヴァルド]]を大公位に据えた。しかしリューリク2世は、ロマンがハールィチに帰国したことを聞くや否や、すぐにキエフを取り返した。1204年、ロマンは再度キエフをリューリク2世から奪い返しキエフ大公の座についた。捕らえたリューリク2世は妃及び娘(かつてのロマンの妃プレドスラヴァ)ともども強制的に剃髪させ、修道院へ送った。
 
1205年、ポーランドと戦争がはじまり、ロマンはポーランドに出征した。しかし帰陣途中、ポーランド大公[[レシェク1世]]と[[マゾフシェ公]][[コンラト1世 (マゾフシェ公)|コンラト1世]]兄弟が率いる敵軍に襲われ討ち死にした。