「宮本大輔 (野球)」の版間の差分

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'''宮本 大輔'''(みやもと だいすけ、[[1981年]][[10月2日]] - )は、オリックス・バファローズに所属していた[[宮崎県]][[日向市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、実業家妻は[[長崎県漫才]]コンビ[[南松浦郡]][[新魚目町]](現海原やすよ[[新上五島町ともこ]])生まれ、[[宮崎県]][[日向市]]出身の海原やすよ
 
妻は[[漫才]]コンビ[[海原やすよ・ともこ]]の海原やすよ。
 
== 経歴 ==
=== アマチュア時代 ===
[[1999年]]の[[1999年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]で[[大阪近鉄バファローズ]]から1位指名され、入団。[[延岡学園高等学校|延岡学園高校]]の先輩である[[黒木知宏]]にあやかり、背番号は54。同期には[[高木康成]]、[[岩隈久志]]がいる。
[[長崎県]][[南松浦郡]][[新魚目町]](現・[[新上五島町]])で生まれ、小学校3年生から[[野球]]を始めた<ref name="asahi_19991120">朝日新聞、1999年11月20日付朝刊、宮崎地方面、P.27</ref>。6年生の時に[[愛知県]]から[[日向市立財光寺南小学校|財光寺南小学校]]に転入し、[[スポーツ少年団]]では[[捕手]]を務めていた<ref>朝日新聞、1999年12月30日付朝刊、宮崎地方面、P.25</ref>。[[日向市立財光寺中学校|財光寺中学]]で[[投手]]に転向し、監督の強い誘いを受けて[[延岡学園高等学校|延岡学園]]に進学<ref name="asahi_19991120"/>。3年[[全国高等学校野球選手権宮崎大会‎|夏の県大会]]では2回戦で敗退したものの、最速143[[キロメートル毎時|km/h]]の[[速球]]やキレのある変化球が評価され<ref name="asahi_19991120"/>、[[1999年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1999年のドラフト会議]]で[[大阪近鉄バファローズ]]から1位指名を受けた。[[三菱重工長崎硬式野球部|三菱重工長崎]]から内定を得ていた<ref name="mainichi_19991120">毎日新聞、1999年11月20日付朝刊、宮崎地方面</ref>が、契約金と年俸それぞれ7,000万円、720万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる<ref>朝日新聞、1999年11月29日付朝刊、P.17</ref>。
 
=== プロ野球選手時代 ===
ルーキーイヤーは一軍登板なく、[[2001年]]に一軍初昇格を果たすも1試合登板のみ。[[2002年]]には35試合に出場し、プロ初勝利、初セーブを挙げるなど中継ぎで活躍した。しかし、翌年以降は防御率が一気に下がってしまう。[[2004年]]は9月27日のシーズン最終戦となった対オリックス戦で、5点ビハインドの8回裏に登板し、そのまま試合に敗れたため、近鉄球団で最後に登板した投手となった。[[2005年]]、球団合併による[[選手分配ドラフト#日本|分配ドラフト]]で[[オリックス・バファローズ]]へ移籍。
故障もあってルーキーイヤーは一軍での登板はなく、{{by|2001年}}に一軍初昇格を果たすも1試合の登板のみだった<ref name="mainichi_20020307">毎日新聞、2002年3月7日付朝刊、P.14</ref>。腰痛克服のため、毎日1,000回の腹筋運動をこなしていたという<ref name="mainichi_20100210"/>。{{by|2002年}}は[[キャンプ_(日本プロ野球)|キャンプ]]で投球フォームの改良に取り組み、[[カーブ (球種)|スローカーブ]]の習得にも挑戦している<ref name="mainichi_20020307"/>。初先発となった8月25日の対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦では最速150km/hの速球などで8奪三振を記録し、初勝利を挙げた<ref name="mainichi_20020826">毎日新聞、2002年8月26日付朝刊、P.18</ref>。同年は35試合に出場し、初セーブを挙げるなど中継ぎでも活躍し、380万円増の年俸1,100万円(推定)で契約を更改している<ref>毎日新聞、2002年12月7日付朝刊、P.17</ref>。
 
{{by|2003年}}はシーズン序盤に4試合に登板したが、5月8日に右ひじの[[離断性骨軟骨炎|遊離軟骨]]除去手術を受け、その後はリハビリに専念した<ref>毎日新聞、2003年5月9日付朝刊、P.17</ref>。{{by|2004年}}は9月27日のシーズン最終戦となった対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦で8回裏に登板し、そのまま試合に敗れたため近鉄球団で最後に登板した投手となった。球団統合にともなうオフの[[選手分配ドラフト#日本|分配ドラフト]]でオリックスへ移籍している。2002年に番組ロケで知り合った[[海原やすよ・ともこ|海原やすよ]]と、{{by|2005年}}12月に結婚した<ref name="mainichi_20080129">毎日新聞、2008年1月29日付夕刊、P.2</ref>。
移籍後は故障もあり、本来の力を出せずにいた。[[2006年]]早春に難病である[[黄色靭帯骨化症]]を発症し、選手生命の危機に立たされたため、[[2007年]]は[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]として契約した。なお、当時オリックス二軍投手コーチだった[[酒井勉]]も黄色靭帯骨化症によって現役を引退している。
 
{{by|2006年}}2月に[[宮古島]]でのキャンプ中に左足に違和感を覚え、[[黄色靭帯骨化症]]と診断された<ref name="mainichi_20080129"/>。神経を圧迫して下半身に麻痺が残る可能性もある難病と知って食事を摂れないほど落ち込んだという<ref name="mainichi_20080129"/>。3月に大阪府内で手術を受け、背中を切開して[[骨化]]した3つの部位を削り取って人工プレートで一部を補強する半日がかりの手術となった<ref name="mainichi_20080129"/>。当初は痛みで寝返りも打てないため妻のやすよが泊まりこんで付き添い、3週間後に退院しても寝たきりの状態が続いた<ref name="mainichi_20080129"/><ref name="mainichi_20080130">毎日新聞、2008年1月30日付夕刊、P.2</ref>。6月頃には近所を散歩して、自宅マンションの6階まで歩いて上がれるようになり、青濤館に通ってリハビリを続けた<ref name="mainichi_20080129"/>。オフには[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]として契約を結び、年俸は300万円減の440万円(推定)、[[野球の背番号|背番号]]は47から114へ変更されている<ref name="mainichi_20080130"/>。
[[2008年]]からは再び支配下選手として契約。[[7月19日]]に4年ぶりの一軍に昇格。同21日のソフトバンク戦で復帰初登板を果たす。先頭打者に本塁打を打たれるが、その後三者連続三振のピッチングを見せた(内容は2回3奪三振1失点)。
 
{{by|2007年}}春には練習試合で投げられるまで回復したが、腰の[[椎間板ヘルニア|ヘルニア]]を発症して2ヶ月ほど投げられない状態が続いた<ref name="mainichi_20080130"/>。しかし9月には[[ウエスタン・リーグ]]で3試合に登板して球速も140km/hを超え、オフには再び[[支配下選手登録|支配下選手]]として契約を結んでいる<ref name="mainichi_20080130"/>。秋季キャンプでは他の選手と同じメニューをこなし<ref name="mainichi_20080131">毎日新聞、2008年1月31日付夕刊、P.2</ref>、{{by|2008年}}は7月19日に4年ぶりで一軍に昇格した<ref name="mainichi_20080723">毎日新聞、2008年7月23日付夕刊、P.3</ref>。7月21日には対[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦で復帰後初登板を果たし、先頭打者に[[本塁打]]を打たれるもその後は3者連続三振など2回を3奪三振1失点に抑えた<ref name="mainichi_20080723"/>。
[[2009年]][[10月3日]]、[[戦力外通告]]を受ける。シーズン終了後、[[12球団合同トライアウト]]に参加。台湾球界や社会人野球からオファーがあったが、国内球団からはオファーがかからず引退を決意。
 
{{by|2009年}}は一軍での登板がなく、10月2日に[[戦力外通告]]を受けた<ref name="mainichi_20100210">毎日新聞、2010年2月10日付朝刊、P.14</ref>。11月に[[12球団合同トライアウト]]に参加したが国内球団からのオファーはなく、[[中華職業棒球大聯盟|台湾球界]]や[[社会人野球]]から獲得の打診があったが引退を決意した<ref name="mainichi_20100210"/>。
引退後は、義父(やすよの父で元漫才師の[[海原かける]])が経営する飲食店での修行<ref>[http://mainichi.jp/select/opinion/newsup/news/20100210ddn013040030000c.html ニュースUP:マウンド去った宮本大輔投手=運動部・加藤敦久]</ref>を経て、2011年7月より大阪心斎橋にて「ダイニングミヤモト」の店長を務めている。<ref>[http://ameblo.jp/honbasho/entry-10945372283.html]</ref><ref>[http://blog.yasunari-takagi.com/?eid=469]</ref>
 
=== 現役引退後 ===
引退後は、義父の[[海原かける]]が経営する[[ちゃんこ鍋|ちゃんこ屋]]での修行を経て<ref name="mainichi_20100210"/>、2011年7月より大阪[[心斎橋]]にて「ダイニングミヤモト」の店長を務めている<ref>[http://blog.yasunari-takagi.com/?eid=469 高木康成のみなさんのおかげです 『ダイニングミヤモト』 2011年7月12日]</ref>。
 
==プレースタイル==
ダイナミックなフォームで長身から繰り出す140km<ref name="mainichi_20100210"/>最速150km/h台後半[[速球|ストレートに加え、ブレ]]は「ドンとくる」球威があるとコーチ効いた[[カーブ (球種)|カーブ久保康生]]に評され、分かっていても打者が空振りするほどだった<ref name="mainichi_20020826"/>。[[フォークボール|フォーク]]<ref name="mainichi_20020307"/>など、ブレーキの効いた[[スライダー (球種_(野球)|スライダー]]などの変化球]]を投げ分けるていた<ref name="mainichi_20100210"/>
 
== 結婚にまつわるエピソード ==
*[[2005年]]に海原やすよと[[結婚]]。やすよとは2002年近鉄の日向キャンプの取材で知り合い、交際・同棲を経て9月に婚約発表、オフとなった[[12月10日]]に入籍・挙式。
*婚約を公表した直後マスコミの取材に対し[[できちゃった結婚]]ではないことを明言。そのときのやすよのコメントは「妊娠?私たちは大人なんで手順は守ります」。
*義姉(妻の実姉)は'''海原ともこ'''。ともこは結婚・離婚各一回を経て[[2006年]][[8月16日]]に、[[俳優]][[前田耕陽]]と入籍したため宮本-前田も義兄弟の関係になった。
*[[プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達|壮絶人生ドキュメント プロ野球選手の妻たち]]で難病の夫を支えた妻やすよの奮闘ぶりが紹介された。
 
== 詳細情報 ==
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== 脚注 ==
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<references/>
 
== 関連項目 ==
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* [[大阪近鉄バファローズの選手一覧]]
* [[オリックス・バファローズの選手一覧]]
* [[越智大祐]] - 同じく黄色靭帯骨化症を発症
* [[酒井勉]] - 同じく黄色靭帯骨化症を発症
 
{{大阪近鉄バファローズ1999年ドラフト指名選手}}
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[[Category:大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:日本の実業家]]
[[Category:宮崎県出身の人物]]
[[Category:1981年生]]