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日本舞踊[[藤間流]]紫派家元。夫は[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁)]]。[[藤間勘祖 (2世)|六世藤間勘十郎]]の元の[[妻]]で、[[藤間勘祖 (3世)|三世藤間勘祖]]である高子と俳優[[藤間文彦|文彦]]の[[母]]。[[弟]]には[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村歌右衛門]]の芸養子である二代目[[中村藤太郎]]、[[中村東蔵 (6代目)|六代目中村東蔵]]。[[東京都]]出身。
 
元[[日本医科大学]]学長[[河野勝斎]]の長女で、12歳の時、六世藤間勘十郎に入門し、天才少女と言われた。{{要出典範囲|date=2013年5月|もともとは弁護士を志していた。}}[[1941年]]、21歳の時、勘十郎から「紫」の名を貰い若くして名取となり、24歳年上の藤間勘十郎と結婚。一男一女を儲けたが、1960年代から16歳年下の市川猿之助と生活を共にするようになり、1985年に勘十郎と離婚。2000年に猿之助と正式に結婚した。孫に宗家藤間流家元の[[藤間勘十郎 (8世)|八世藤間勘十郎]](高子の息子)と[[ジャニーズ事務所]]所属タレントの[[藤間貴彦]](文彦の息子)。
 
1948年の『[[淀君]]』をはじめとして、昭和30年代に[[帝国劇場]]での『椎葉の里』、[[明治座]]での『青銅のキリスト』等を発表、舞踊劇の創作に注力。舞踊家としても藤紫会公演を大劇場にて行なう。1985年の勘十郎との離婚訴訟をきっかけに、宗家藤間流のお家騒動が起こり、1987年に宗家藤間流を離れて紫派藤間流を創流<ref name=oricon/>。毎年東京と大阪にて舞踊会を開催。1993年10月、国立大劇場にて自身のリサイタル「藤間紫の会」を開催する。