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[[千葉県]][[東葛飾郡]]市川町(現在の[[市川市]])生まれ。小学校卒業後、[[労働運動]]に目覚め、[[1922年]](大正11年)、日本共産党([[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]])結成と同時に入党。[[日本労働総同盟]]左派の中心人物として活動。総同盟分裂後は[[日本労働組合評議会]]のリーダーとして[[共同印刷]]、[[ヤマハ|日本楽器]]などにおける労働争議を指導した。党再建(第二次共産党)後、[[中央委員会|中央委員]]に選出され、[[ソビエト連邦]]に派遣されて[[コミンテルン]]による[[27年テーゼ]]の作成に参加した。帰国後、[[福本イズム]]の退潮をうけて党書記長に選出された。
 
[[1928年]](昭和3年)、国際連絡の帰途、[[台湾]]の[[基隆市|基隆]]で挙動不審ゆえ刑事に誰何された際、隠し持っていた[[拳銃]]で刑事を狙撃(翌日、死亡)したため官憲に追われ、包囲され自身の拳銃で自殺した{{refnest|group="注"|ただし、訪台して遺体を引き取った[[布施辰治]]によると、弾痕は渡辺の額の中央にあったという<ref>大石進 『弁護士布施辰治』 142頁</ref>。このため渡辺の死は自殺ではなく警官隊による射殺であるとの主張もある。}}
 
妻は社会主義運動家・女性運動家として知られる[[丹野セツ]]。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==