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=== ヤクルト時代 ===
浪人寸前のところを{{by|1987年}}4月13日に[[関根潤三]]率いる[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]への入団が内定し、18日に契約して、27日午前成田空港に日航機で来日、10月21日の最終戦に出場した後、22日夜ノースウェスト機で帰国するというスケジュールであった。[[野球の背番号|背番号]]は「シーズン50本塁打」という期待を込めて'''50'''に決まった。ヤクルトでのデビュー戦(5月5日対阪神4回戦、神宮)の来日第3打席で[[仲田幸司]]の初球の外角低めの速球を905グラムの日本製バットで叩いて右翼ポール際へ1号2ラン本塁打、翌6日の2戦目では[[池田親興]]からなんと3本のソロ本塁打を放った(1回二死での第1打席(来日第5打席)に0ボール2ストライクでの3球目真ん中低めのスライダーを左翼へ、3回の第2打席は3ボール1ストライクから四球、5回無死での第3打席は2ボール1ストライクでの4球目内角高めの速球を左中間へ、7回無死での第4打席はフルカウントでの6球目外角高めの直球をバックスクリーン中央へ叩き込んだ)。2試合目の本塁打は3本とも打った瞬間にそれと分かるものであり、その際の観客の反応も大歓声というよりは、明らかに呆気にとられたような歓声と拍手が多くを占めていた。最初の2試合で6打数5安打、打率.833、本塁打4、打点5、四球2の日本球界デビューで、3試合目は阪神バッテリーが勝負を避けた。5月9日の4試合目は佐世保で[[白武佳久]]が真っ向勝負して、初回二死の第1打席で外角高めの直球を右翼へ5号ソロ、6回の先頭打者での第3打席ではストライクゾーンから約3インチ(7センチ)外れた内角シュートを左翼場外へ6号ソロ本塁打を放ち、4試合で11打数7安打、本塁打6のデビューを飾り、黒船級の「'''ホーナー旋風'''」を巻き起こし、シーズン終了までにいったい何本打つのだろうという期待をファンに抱かせた。[[1987年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)|1987年のオールスターゲーム]]にもセリーグ一塁手部門でファン投票で選出された(腰を痛め出場辞退)。
 
最終的には故障で規定打席に達しなかったものの、93試合で打率.327、31本塁打、73打点を記録した。外国人選手が規定打席不足で30本塁打以上を記録したのは、この年のホーナーと{{by|1988年}}の[[ラルフ・ブライアント]]([[大阪近鉄バファローズ|近鉄]])、{{by|1989年}}の[[オレステス・デストラーデ]]([[埼玉西武ライオンズ|西武]])、{{by|2003年}}の[[ロベルト・ペタジーニ]]([[読売ジャイアンツ|巨人]])、{{by|2012年}}の[[ウラディミール・バレンティン]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]])らがいる。なお、8月9日[[平和台球場]]での対阪神17回戦で7回表の先頭打者として[[マット・キーオ]]から18号本塁打となったはずの中越え同点ソロアーチを放ったが、続く[[杉浦享]]が左飛に倒れて一死となった後、雷雨で49分間の中断を経て、21時18分にコールドゲームが成立し、6回で試合終了となったため、幻の本塁打が1本ある。18号本塁打の打ち直しは8月12日[[広島市民球場 (初代)|広島]]での対広島16回戦で行われ、またもや7回表の先頭打者での打席で、投手交代したばかりの[[川端順]]が投じた肩口から入る内角のパームボールを叩いた左翼へのソロ本塁打であった。また、8月30日横浜での対大洋21回戦の3回表二死満塁の場面で[[松本豊]]の直球を捉えた左中間への23号本塁打は来日して唯一の満塁弾であり、10月2日神宮での対阪神24回戦の5回一死一塁で[[猪俣隆]]の高めのカーブを捉えて左翼フェンスぎりぎりに運んだ31号2ランが日本での最後の本塁打であった。[[佐々木信也]]はホーナーの放った本塁打を「チームの勝利に拘泥せず、伸び伸びと打った雄大なアーチ」と評した。
 
ホーナーは同年、プレーでの活躍のみならず、[[ヤクルト本社|ヤクルト]]製品CMの出演料や、著書「地球の裏側にもうひとつの野球があった」の原稿料など、しめて5億円を稼いだと言われている。ヤクルトのCMでは「おなかに菌力」と日本語のセリフを放った。また、[[サントリー]][[ビール|缶ビール]]のCMでは[[薬師丸ひろ子]]と共演している。このほか、[[ハドソン]]の[[ファミリーコンピュータ]]向けゲーム『[[桃太郎伝説]]』に登場する敵キャラ「あかおにホーマー」のモデルにもなっている。