「フランス革命戦争」の版間の差分

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→‎背景: ヴァレンヌ事件は、王家の国外への亡命では無いので訂正。
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== 背景 ==
[[1780年代]]末、[[七年戦争]]以来のヨーロッパ大国間の対立関係は解消されつつあった。プロイセン、オーストリア、ロシアの3国は第1回[[ポーランド分割]]([[1772年]])で協調し、それぞれ国境に隣接する地域を獲得した。ロシアと[[スウェーデン]]は[[1788年]]から[[第一次ロシア・スウェーデン戦争]]を戦っていたが、スウェーデンの優勢によってロシアは[[スウェーデン=フィンランド|フィンランド]]への干渉を停止し、両国の関係は改善されることとなった。イギリスは[[アメリカ独立戦争]]に伴う第一次[[武装中立同盟]]の結成によって国際的孤立に立たされたが、戦争終結によって孤立も解消された。こうした国際環境の中で[[フランス革命]]が勃発した。
 
ヨーロッパの君主たちはフランス革命の動向を注視していた。スウェーデン国王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]は、フランス王家との繋がりから早くから[[反革命]]の立場を表明していた。[[1791年]]6月、ルイ16世一家のフランス革命勢力からの脱出が失敗に終ると([[ヴァレンヌ事件]])、直ちにフランスからの[[亡命]][[貴族]]([[エミグレ]])と結び、[[反革命十字軍]]の結成をヨーロッパ諸国に呼びかけた。しかし呼びかけに答えたのは[[ロシア皇帝]][[エカチェリーナ2世]]のみで、結成には至らなかった。1792年3月にグスタフ3世が[[暗殺]]されたことで、スウェーデンは革命戦争に参加することはなかった。
 
神聖ローマ皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]も決断を迫られていた。レオポルト2世はフランス国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の王妃[[マリー・アントワネット]]の実の兄として、革命が過激化していくにつれて親族の身に迫る危険を看過しえなくなっていたのである。[[1791年]]8月27日、レオポルト2世は亡命貴族の[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯爵]](ルイ16世の弟)の仲介のもと、プロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]と共同で[[ピルニッツ宣言]]を発表した。これは、フランス王家の安全を守るため、必要があれば革命に介入する用意があるとするものであった。