「複都制」の版間の差分

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2世紀後半、[[ローマ帝国]]では[[正帝]]と[[副帝]]による分治が起こり、[[ディオクレティアヌス]]帝の時代に帝国が東西に分けられ、2人の正帝と2人の副帝によって[[テトラルキア|四分統治]]された。これにより[[ニコメディア]](イズミット)、[[シルミウム]]、[[メディオラヌム]](ミラノ)、[[アウグスタ・トレヴェロールム]](トリーア)の4都が置かれ、[[ローマ]]は首都機能を失ったが、名目的には帝国の都として続いた。その後、西方正帝[[コンスタンティヌス1世]]が帝国を統一し、東方に新都[[コンスタンティノポリス]]を建てた。
 
[[395年]]には、東帝[[テオドシウス1世]](西帝は形式的に幼い次男[[ホノリウス]])の死により、長男[[アルカディウス]]が東帝とされ、都が東のコンスタンティノポリスと西のメディオラヌム(後に[[ラヴェンナ]]へ遷都)に置かれ、東西二分が進むことになった。これらをローマ帝国が東西2国に分裂したとするのは誤りで、4世紀に分治の色が濃くなったものの、当時「西の皇帝」「西の領土」などとは言われても「西ローマ帝国」とは言われず、あくまで「ローマ帝国」の分割統治であった。
 
== 中国の複都制 ==