「矢野玄道」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
エラー回避
編集の要約なし
9行目:
*天保11年([[1840年]]) 松山の日下伯巌の塾(明教館)に入門。
*天保12年([[1841年]]) 玄道19歳の折、名を敬逵(たかみち)と称し扶桑真人倚松と号す。
*弘化元天保15年([[1844年]]) 二月下旬[[周防国|周防]]から[[長門国|長門]]を経由して、[[豊後国|豊後]]の[[宇佐八幡宮]]や[[筑前国|筑前]]の[[筥崎宮]]、[[太宰府天満宮]]などを参拝し、[[日向国|日向]]の神代古蹟を探訪後、[[薩摩国|薩摩]]の[[霧島神宮]]を参詣のち[[霧島山]]に登る。以後[[肥後国|肥後]]を経て熊本の[[阿蘇山]]に登り帰来して見聞記を録す。
*弘化2年([[1845年]]) [[京都]]に上洛し、[[新宮涼庭]]の[[順正書院]]に入塾。[[伴信友]]や[[八田知紀]]を訪ねて交流す。
*弘化4年([[1847年]]) 正月19日正式に平田家に入門する。また24日には[[昌平坂学問所]]に入塾する。