「アラン・コーマック」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
KLBot2 (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 31 件をウィキデータ上の d:Q223542 に転記
7行目:
南アフリカの[[ヨハネスブルグ]]にて生まれる。[[ケープタウン]]のRondebosch Boys' High Schoolに通った。[[討論]]と[[テニス]]に積極的であった。[[ケープタウン大学]]において[[1944年]]に[[物理学]]にて[[B.Sc.]]を取得。[[1945年]]には[[結晶学]]にて[[M.Sc.]]を取得。[[1947年]]から[[1949年]]は[[ケンブリッジ大学]]の[[研究生]]であった。[[ケンブリッジ]]にいたとき、将来の妻になる物理学の学生と出会う。
 
結婚後、[[1950年]]代前半、彼はケープタウン大学に戻り、講義を行う。[[1956年]]から[[1957年]]にかけての[[ハーバード大学]]での長期有給休暇の直後、夫妻はアメリカ合衆国に引っ越すことに決め、[[1957年]]秋、[[タフツ大学]]の教授に就任した。[[1966年]]にアメリカ合衆国に[[帰化]]。彼は主に[[素粒子物理学]]の研究を行うが、他に[[X線]]の技術にも興味を抱き、CTの理論的な土台、{{仮リンク|概周期函数|en|Almost periodic function}}に対する{{仮リンク|[[ラドン変換|en|Radon transform}}]]及びその逆変換から離散データを得る計算を繰り返す{{仮リンク|トモグラフィック復元|en|Tomographic reconstruction}}を開発した。この研究は、ケープタウン大学と[[グローテ・シューア病院]]にて1956年に始められ、1957年中旬、長期有給休暇から戻ってから間歇的に継続させられた。この結果は、journal of applied physicsにて[[1963年]]と[[1964年]]に二本の論文として発表された。この論文は、[[ゴッドフリー・ハウンズフィールド]]とその同僚が、コーマックの理論を用いて[[1972年]]にCTの装置を実際に開発するまで、ほとんど注目されていなかった。このことにより、コーマックとハウンズフィールドは1979年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
 
[[マサチューセッツ州]]にて74歳で[[癌]]により死去。死後、CTの開発者の一人という科学者としての顕著な業績により、[[2002年]][[12月10日]]に[[マプングブェ勲章]]を授与された。