削除された内容 追加された内容
文章加筆
4行目:
なお、律令制とは、律令に基づく制度を意味する用語であり、律令自体については'''[[律令]]'''の項を、律令の持つ[[法典]]としての性質などについては'''[[律令法]]'''の項を、それぞれ参照されたい。
 
== 基本理念中国の律令制 ==
=== 基本理念 ===
律令制とは、古代中国から理想とされてきた'''[[王土王民思想|王土王民]]'''(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする'''一君万民'''思想と表裏一体の関係をなしていた。
 
律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民([[百姓]])に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、[[税|租税]]・[[労役]]・[[兵役]]が同じく一律平等に課せられていた。さらに、こうした統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち'''[[律令]]'''と[[格式]]が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な[[官僚]]機構が構築されていた。この官僚機構は、王土王民理念による人民統治を実現するための必要な権力装置であった。
 
=== 基本制度 ===
東アジアに特有の律令制は、各時代・各王朝ごとに異なる部分もあったが、王土王民と一君万民の理念を背景として、概して次の4つの制度が統治の根幹となっていた。
 
; 一律的に耕作地を班給する土地制度
36 ⟶ 37行目:
上記のような国家体制を、総称して律令制という。中国史上では、[[隋]]から[[唐]]にかけての王朝で顕著であり、周辺の東アジア諸国では[[7世紀]]後期~[[9世紀]]頃に、中国由来の制度として広く施行された。唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである<ref name="furuta"/>。律令を制定できるのは中国皇帝だけであり、中国から冊封を受けた国には許されないことだったが、日本は冊封を受けておらず独自に律令を制定した<ref name="kikuchi"/>。 中国でも周辺の東アジア諸国でも、[[10世紀]]以後、上記のような律令制は死滅もしくは形骸化したが、その後も法形態としての律令は、中国や日本や[[ベトナム]]などで存続し続けた。
 
=== 略史 ===
律令制の祖形は、古く[[秦]]・[[前漢|漢]]期まで遡るともいわれているが、当時は単行の法令あるいは必要に応じてそれらを集成・整理したものに過ぎず、まとまった法典の形式は取っていなかったと考えられている。厳密に言えば、律令制は中国の[[魏晋南北朝時代]]において出現し、徐々に形成されていった。[[後漢]]末期から戦乱の時代が長く続き、中国の社会は混乱を極め、ほとんど崩壊に至っていた。こうした社会の再建のため、[[魏 (三国)|魏]]に続く諸王朝は、王土王民の理念による統治を指向するようになったのである。
 
51 ⟶ 52行目:
 
それでも、唐中期までは律令制が統治機能を果たしていたが、[[8世紀]]中ごろの[[玄宗 (唐)|玄宗]]期になると律令制が徐々に崩壊し始める。まず府兵制が機能しなくなり、募兵を中心とする[[募兵制]]・[[節度使]]が導入された。均田制の根幹となる百姓への耕作地の支給は、次第に実施されなくなり、それに伴って租庸調制が立ち行かなくなったため[[780年]]に税制は[[両税制]]へと移行した。また、[[758年]]には困窮する国家財政の新たな財源として、塩と鉄の専売制が開始している。律令制を運営する官僚制度も大きく変容し、律令に規定のない[[令外の官]]が非常に多数生まれていた。こうした変化の背景には、地方の新興地主層による大土地所有や官僚進出の進展があった。これにより、社会が大きく変動し始めたため、従来の統治制度である律令制が機能不全に陥り、崩壊に進んでいった。唐後期になると、律令制と呼びうるものはほぼ消滅した。
 
唐律令制を摂取した東アジア諸国でも同様の状況が見られた。いずれの国においても、[[8世紀]]後期から[[9世紀]]にかけての時期に、律令制は死滅あるいは形骸化していった。
 
律令は[[宋 (王朝)|宋]]においても編纂され、モンゴル系の[[元 (王朝)|元]]による中断を挟んで[[明]]でも行われた。しかし、次第に時の皇帝の[[勅]]や新たに編纂された[[会典]]の影響が大きくなると、律令の役割も縮小し、[[清]]では律のみが編纂されるようになった。
 
== 隋・唐の律令制 ==
[[隋]]の[[楊堅|文帝]]代には、『[[開皇律令]]』という律令が施行された。次の[[煬帝]]の代には、その改正である『大業律令』が頒布されたが、『開皇律令』と大差がなかった。
 
[[唐]]の創業者である[[李淵|高祖]]は、『開皇律令』に基づいて『武徳律令』を頒布した。その後も代々改正が加えられ、[[玄宗 (唐)|玄宗]]朝の[[開元]]25年([[737年]])に頒布された『[[開元二十五年律令]]』は、東アジア諸国でも踏襲された。但し、実情は律令の規定は現実社会とは乖離しつつあり、律令を補なう[[格式]]が重視されるようになった。よって、律令の本文は早くに散逸したが、律については[[李林甫]]らによる注釈書『[[唐律疏義]]』が残り、令については、[[1933年]]、日本の[[中国法制史]]学者である[[仁井田陞]]が、和漢の典籍より逸文を輯逸し、『[[唐令拾遺]]』を著している
 
但し、実情は律令の規定は現実社会とは乖離しつつあり、律令を補なう[[格式]]が重視されるようになった。よって、律令の本文は早くに散逸したが、律については[[李林甫]]らによる注釈書『[[唐律疏義]]』が残り、令については、[[1933年]]、日本の[[中国法制史]]学者である[[仁井田陞]]が、和漢の典籍より逸文を輯逸し、『[[唐令拾遺]]』を著している。
 
== 日本の律令制 ==
=== 略史 ===
『[[日本書紀]]』によれば[[推古天皇]]11年12月5日([[604年]]1月11日)に始めて[[冠位十二階]]の制定などの国制改革が日本で行われ、官に12等があると『[[隋書]]』倭国伝に記されていることからも、身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るものであった<ref>井上光貞「冠位十二階とその史的意義」283頁。</ref>。
日本の律令制は、概して[[7世紀]]後期([[飛鳥時代]]後期)から[[10世紀]]頃まで実施された。そのうち、[[8世紀]]初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。
 
日本の律令制は、概して[[7世紀]]後期([[飛鳥時代]]後期)から[[10世紀]]頃まで実施された。そのうち、[[8世紀]]初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。
[[6世紀]]末期から[[7世紀]]初頭の[[推古天皇]]の時代に、律令制を指向する動きがあったとする見解がある。確にこの時期に[[冠位十二階]]の制定などの国制改革が行われたが、政治・社会体制を大きく変革するものではなかった。当時の[[朝廷]]は、[[隋]]との交渉の中で、律令制とその基本理念を知る機会はあった([[622年]]に帰国した[[遣隋使]]の[[恵日]]らが[[推古天皇]]に[[唐]]の律令制について報告している)が、それを実行に移す能力は未だ[[朝廷]]に備わっていなかった。
 
[[646年]]から[[孝徳天皇]]や[[天智天皇|中大兄皇子]]らが進めた政治改革、いわゆる[[大化の改新]]において、4つの施策方針が示された。それらは、中国律令制の強い影響を受けたものである。その内容は
76 ⟶ 73行目:
であった。[[20世紀]]中後期頃までは、大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていたが、[[1967年]]12月、[[藤原京]]の北面外濠から「[[己亥]]年十月[[上総国|上捄国]][[安房郡|阿波評]]松里□」(己亥年は西暦[[699年]])と書かれた[[木簡]]が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、[[改新の詔]]の文書は『[[日本書紀]]』編纂に際し書き替えられたことが明白になり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明、必ずしも律令制史上の画期とは見なされなくなってきた。例えば、改新の第一の方針は[[公地公民制]]を確立したものとして評価されてきたが、これは王土王民の理念を宣言したのみに過ぎず、改新時に公地公民制という制度は構築されなかったとする見解も有力となりつつある。大化の改新は『日本書紀』に描かれるほどの画期的な改革ではなく、その後、改革への動きは停滞したとする見解が広範な支持を集めているのである<ref>木下正史『藤原京』「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」(中央公論新社、2003年 p64)</ref><ref>市大樹『飛鳥の木簡』「大化改新はあったのか」(中央公論新社、2012年 p49)</ref>。
 
律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。[[660年]]の[[百済]]滅亡と、[[663年]]の百済復興戦争([[白村江の戦い]])での敗北により、[[唐]]・[[新羅]]との対立関係が決定的に悪化し、[[倭]]朝廷は深刻な国際的危機に直面した。そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。危機感を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の[[天智天皇]]は[[豪族]]を再編成するとともに、官僚制を急速で整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が集中することになった。この時期に編纂されたとされる[[近江令]]は、国制改革を進めていく個別法令群の総称だったと考えられている。天智天皇による国制改革は全国に及んでおり、[[令制国]]と呼ばれる地方[[行政区画]]が形成されたのもこの時期である。こうして、地方での人民支配が次第に深化していき、670年頃になると地方支配の浸透を背景に、日本史上最初の[[戸籍]]とされる[[古代の戸籍制度|庚午年籍]]が作成された。戸籍は、律令制の諸制度を実施するために必要な要素であり、最初の戸籍がこの時期に作成されているという事実は、班田収授制が大化の改新時に始まったのではなく、天智天皇以後に始まったことの反映であるとする見解が有力となっている。
 
天智天皇の死後、[[壬申の乱]]を経て政権を奪取した[[天武天皇]]は、軍事を政治の最優先項目に置き、専制的な政治を推進していった。主要な政治ポストには従来の[[豪族]]ではなく諸[[皇子]]をあてて、その下で働く官僚たちの登用・考課・選叙など官人統制に関する法令を整備していった。こうした流れは、体系的な律令法典の制定へと帰着することになり、[[681年]]に天武天皇は律令制定を命ずる[[詔]]を発出した。天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、[[689年]]の[[持統天皇]]の時代に令が完成・施行された。これが[[飛鳥浄御原令]]である。この令は、律令制の本格施行ではなく先駆的に施行したものと考えられている。令原文が現存していないので、詳細は判明していないが、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格がこの令により形成されたと考えられている。また、現在判明している範囲では浄御原令の官制などの制度は、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]や[[隋]]の中国の制度や百済・新羅などの朝鮮半島の制度が織り交ぜられたものと考えられ、令以上に体系性を必要とする律――すなわち「飛鳥浄御原律」が制定されなかった理由の1つと考えられている。また、この時期までに隋律あるいは唐律が日本に伝来された可能性は低く<ref>平安時代の著作になるが、『日本国見在書目録』の中に隋令の存在は確認できる一方で、隋律の存在が確認できないため、隋律は日本には伝わらなかったとみられている。</ref>、日本で律が編纂されるようになるには、唐との関係改善によって唐からの律法典が将来され、それを理解して日本の国情に合わせて改編できる人材の確保(唐留学生の帰国や唐人の来日)を待たねばならなかったと推定されている<ref>榎本淳一「〈東アジア世界〉における日本律令制」大津透 編『律令制研究入門』(名著刊行会、2011年)所収</ref>。