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寛永20年([[1643年]])、嫡男の[[前田綱紀|綱紀]]が誕生するが、この報せを聞いた直後の[[参勤交代|参勤]]で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ<ref>『[[可観小説]]』には、綱紀誕生に光高は大いに喜び、誕生数日後には利常と共に連歌会を開いて喜びを歌で現している。『前田綱紀』(人物叢書)1頁。</ref>。
 
[[正保]]2年([[1645年]])4月5日、[[老中]]・[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]を招いた茶会の席で突然倒れて急死した<ref>突然の急死に関しては、その才能や人物を恐れた幕府による毒殺や、小姓・近臣による毒殺などの噂もあったとされる。『前田綱紀』(人物叢書)7頁。</ref>。[[享年]]30(満29歳没)。跡を長男の綱紀が継ぎ、それを利常が補佐する体制がとられた。
 
法名は陽廣院殿將巌天良大居士。墓所は[[石川県]][[金沢市]]野田町の[[野田山|野田山墓地]]。
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== 人物・逸話 ==
* 母方の叔父に[[徳川家光]]がいるが、家光はなかなか男子に恵まれなかったため、一時この光高を後継者にしようとしたという。
* 両親美男美女カップル言われただけあって、光かった故にかなりの美男子と言われ、当時から家光の[[衆道]]([[男色]])相手をしていた時期もあったと、当時からいうが流れていた。
* 光高は腕力が絶倫で、指で碁石を碁盤に押し込んだという逸話がある<ref>『前田綱紀』(人物叢書)12頁。</ref>。
* 光高はなかなかの器量人であり、武芸や和漢の才に優れて『遺訓』『銘歌』『一本種』『自論記』など著作が多数ある。また光高は家康の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった<ref>『前田綱紀』(人物叢書)5頁 - 7頁。</ref>。
* 光高は[[下戸]]であったとされ、それを物語る逸話がある。隣藩の[[福井藩]]主[[松平忠昌]]は[[酒豪]]でそれを医師に諌められると、「むこふなる加賀の筑前(光高)、下戸なれど31で病死をぞする」という狂歌を一首歌ったという<ref>『前田綱紀』(人物叢書)7頁。</ref>。ちなみに忠昌は光高の後を追うように4ヵ月後に死亡した。
 
== 官職位階履歴 ==