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太平洋戦争開戦前、日本海軍は、東南アジア資源地帯との[[シーレーン]]防衛に関する具体案をもっていなかった。アメリカ海軍が開戦早々に[[無制限潜水艦作戦]]を開始して民間船舶を襲撃したのに対し、日本海軍も[[南方作戦]]終了後に[[海上護衛隊]]を編成し、適宜に護送船団を運航させたが、無護衛の船団や独航船も多かった。日本にとって最重要の南方資源であった石油についても、[[1942年]](昭和17年)3月にボルネオ島[[セリア (ブルネイ)|セリア]]産油を積んだタンカー「[[橘丸 (タンカー)|橘丸]]」([[旭石油]]所属)をさきがけに輸送が始まっていたが、護衛態勢は確立されない状態が1年以上続いた<ref>駒宮(1987年)、383頁。</ref>。
 
[[ファイル:IJNJapanese escort ship Etorofu 1943.jpg|thumb|right|250px|1943年5月竣工の海防艦「[[択捉型海防艦|択捉]]」。]]
太平洋戦争も後半に差し掛かった[[1943年]](昭和18年)7月、日本海軍は、石油の内地輸送のため、石油輸送専門の高速護送船団を新たに運航することにし、これをヒ船団と命名した。従来のオランダ領東インド方面からの石油輸送は、シンガポール(当時の日本側呼称は昭南)を起点に、サンジャック(聖雀、現在の[[ブンタウ]])や高雄などを経由する航路だったのに対し、ヒ船団は原則としてシンガポールと門司を直行で結ぶ航路とされた。このヒ船団創設の背景には、[[戦時標準船]]として急造された大型タンカーや、長距離航海が可能な新型船団護衛艦である[[海防艦]]が、1943年前半から徐々に就役開始し、艦船の能力的に長距離直行便が運航可能になったという事情があった<ref name="iwa70" />。なお、直接オランダ領東インドまで行かずにシンガポール発とされた理由は、主要油田のあるパレンバンが河川港で大型タンカーが入港できないため、小型船でシンガポールに集積する方式とされていたからである<ref>岩重(2011年)、54頁。</ref>。