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'''ウィリアム・ランドラム・ミッチェル'''(William Lendrum "Billy" Mitchell、[[1879年]][[12月28日]]-[[1936年]][[2月19日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[軍人]]、陸軍[[准将]]。「[[アメリカ空軍]]の父」として知られる。アメリカの初期の航空戦力を指揮し、空軍の創設を主張した人物でもあるが、軍上層部への痛烈な批判が原因で除隊に追い込まれた。
==生涯==
[[フランス]]のニースにで生まれ、る。[[米西戦争]]に米陸軍の2等兵として従軍し、その後に陸軍通信隊に[[少尉]]として配属され、[[キューバ]]、[[フィリピン]]、[[アラスカ]]に赴任する。1909年に参謀大学校を卒業し後、19151913年に米陸軍参謀本部で最年少の部員となる。1916年には臨時で陸軍航空隊部の指揮官として長に就いた<ref>ミッチェルは[[ライト兄弟]]の飛行を見て航空戦行機に関心を持っていた。1915年から翌年にかけて[[グレン・カーチス]]の飛行学校で活躍操縦訓練を受けている。</ref>。[[第一次世界大戦]]へのアメリカ参戦が決定した1917年には、アメリカ遠征航空隊の司令官として渡仏。1918年にサン・ミールの戦いで15001,500機の部隊を指揮し、ミューズ・アルゴンの戦役では200機の爆撃機を指揮した。この功績で米国だけでなく同盟国からも勲章を受ける。
[[第一次世界大戦]]が終結してからは陸軍航空隊の副司令官に就き、[[空軍力]]の重要性や[[戦闘機]]、[[雷撃機]]、[[爆撃機]]など多種多様な航空機を揃えることを強く論じるようになり、独立[[空軍]]の創設を強く主張し。1921年から1923年にかけて老朽戦艦への爆撃実験を行なう等、軍首脳部へ挑戦状を叩き付けた。更には陸海軍の保守的な態度を「無能、職務怠慢」と痛烈に公の場で批判した。それが為に陸海軍の反発を買い、う。1925年に、ミッチェルは[[飛行船]][[シェナンドー (飛行船)|シェナンドー (ZR-1)]]墜落の責任を取る形で[[軍法会議]]にかけられ、5年間の停職処分を受けた。翌1926年に除隊する。
除隊後は[[バーモント州]]の生家へ戻った。航空問題の啓蒙活動に携わり、[[戦略爆撃]]の効果などを論じる。1936年2月19日に死後、去。1946年にアメリカ政府はそミッチェルの功績がと先見の明を認定されてめ、少将に任命するとともに、[[議会名誉黄金勲章]]がを授与されけた。
== 著書 ==
*[[シェナンドー (飛行船)|USSシェナンドー (飛行船)]]
*[[B-25 (航空機)]]
== 脚注 ==
<references/>
==参考文献==
*[[佐貫亦男]] 著『空のライバル物語』 酣燈社、1971年
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