「ムスチスラフ3世」の版間の差分
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[[1178年]]、父ロマン1世によって、ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ([[:ru:Мстислав Ростиславич Храбрый|ロシア語版]])と争っていた[[ヴィテプスク公]]のフセスラフ・ヴァシリコヴィチの援軍として派遣され、[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド]]におけるムスチスラフ・ロスチスラヴィチの主導権を遮断して紛争を収めた。
[[1185年]]、[[ホロール川
[[1195年]]、[[チェルニーヒウ|チェルニゴフ]]の[[オレーク一門]]が[[ヴィーツェプスク|ヴィテプスク]]への遠征軍を組織し、途上で[[スモレンスク]]の地を破壊し始めた。ムスチスラフ3世は、叔父でありスモレンスク公のダヴィド・ロスチスラヴィチ([[:ru:Давыд Ростиславич|ロシア語版]])により、スモレンスク公軍の長に置かれ、迎撃に出た。戦闘そのものは勝利に終わったが、チェルニゴフ軍と[[ポロチャーネ族]]に背後を衝かれ、[[捕虜]]になっている。また、1197年には叔父ダヴィド・ロスチスラヴィチの死によりスモレンスク公となった。
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